lollipops are something pure.

 前日の雨がすっかり嘘みたいにきれいな天気で、気温も比較的高くてすごし易い日曜日、僕とHの乗った嵐山へと向かう満員電車は、段々と乗客を減らし、嵐山へ着いた時にはその数は随分と減っていた。僕たちはほとんど天龍寺に御札を返す、という目的の為だけに嵐山へやって来たのだけど、観光地の日曜日にしては人が随分と少ない。前回来た時は紅葉の時期だったから、その落差が大きくて余計に人が少なく感じられるのかもしれない。

 天龍寺に御札を返したあと、クレープなんか食べて、バスで四条河原町まで戻って、それから八坂神社でやっと初詣をした。もう世間ではお正月なんてすっかり忘れ去られていて、天竜寺でも八坂神社でも「節分祭」の広告が出ていた。世界は前を向いて歩いているのだ。
 神社の門をくぐり、手水を取ってHが手と口を清めるのを僕はぼんやりと眺め、それから一つ欠けていた彼女の作法をただし、そのくせ僕は手も口も清めなかった。夏なら喜んでするけれど、寒い冬に冷たい水を触るのはあまり嬉しくない。でも、本当はきちんとした作法に則って僕も自分を清めるべきだったんだと思う。どこへいって何をするでも、作法というものはきちんと守った方がいい。作法には作法の、それなりの意味があるのだ。しかも神社には神様がいる。

 メインの素戔嗚尊を祭った社へ向かう道に、小さな恵比寿様を祭った社があって、僕が「メインじゃなくて、これくらいのちっぽけなところでもお参りしてあげようかな」と言っていると木から枝が落ちてきた。さっきも書いたけれど、神社には神様がいるのだ。
 ちなみに、今では八坂神社のメインは素戔嗚尊となっているが、これは明治以降の話で、もともと祭られていたのは牛頭天王という仏教の守護神だった。それを明治の廃仏棄釈運動、つまり親日排中運動の一貫で中国の仏教に関わる牛頭天王を廃し、それと同格だとされていた素戔嗚尊をメインに据えたのだ。神社の名前も八坂神社ではなくて祇園社だった。祇園も仏経の言葉だから廃止したのだ。神様は政治に影響される。

 素戔嗚尊を祭る大社には、参拝の人々が列を成していて、僕はそこをやめて隣りのちっぽけな社を覗いてみた。するとそこにはびっくりすることに悪王子というものが祭られていた。悪の王子。とんでもない名前にひかれて能書きを読んでみると、悪王子というのは素戔嗚尊の荒魂のことだった。荒魂を参るのがいいことなのかのか悪いことなのかはよく分からないけれど、僕はその名前の持つ語感に好感を抱いて、その荒魂を参ることにした。それに僕の今年の抱負には「悪巧み」が含まれているのだ。
 しかし、荒魂がこうして別に奉られているということは、本社にあるのは素戔嗚尊の和魂だけだということになる。なんとなく、別々ではなくて荒魂も和魂も一緒にして置いた方が素戔嗚尊としても心地が良いのではないかと思うのだけど。

 悪王子の助けもあってか、おみくじは大吉だった。おみくじだけなら毎年大吉なんだけど、もちろん嫌な事だって起こる。でも、まあとにかく大吉なのだ。それに今年は素戔嗚尊の荒魂というちょっとダークで強力なものも助けてくれる。もちろん、いつものように僕はたくさんの人や物や魂に助けて貰うのだろう。2006年という新しい年はもう始まっている。