パウダーランド。

 土曜日の夜、6帖の部屋に20人近くという無謀な餃子パーティーのあと雪が降り積もった。本物の冬だ。

 最近、考えることとすべきことが多すぎて、日記を書く余裕がない。

 メモ。

 夢の大きさは測れない。と何処かの大学のポスターにコピーが打ってあった。測れない訳じゃなくて、測らないだけだ。それは基準や単位を決めていないというだけのことで、単位をきめればなんだって測れる。そんな勝手にきめた計測結果に意味はないのだ、というのはおかしい。計測結果には本来意味はない。意味は僕たちが付けるのだ。

 「気楽にやってみる」と安藤忠雄さんが講演のときに連発していたけれど、本当に気楽に物事を進める人間は「気楽にやる」なんてことを言わない。「気楽にやった」というのは「思い切った」という意味なのだ。

 高橋源一郎の「文学じゃないかもしれない症候群」を読んでいると、今までばらばらだった「文学」と「量子力学」に橋がかかった。

量子力学者の書いた本をいろいろ読んでみた。そして、かれらの言葉に対する感覚が、最高の(現代の)文学者のものであることを知ってびっくりしたのだった」 ―(「文学じゃないかもしれない症候群高橋源一郎朝日出版社

「ぼくたちは経験と類推によってことばを使う。だから、まったく新しい事件に遭遇した時には何もいえない。言葉がないからだ。でも、どんな言葉ももってこられないような真に”新しい出来事”は滅多に起こらない。量子力学ではそれが起こったのだ。」―(出典同じ)

 若きハイゼンベルクに「我々の言葉で原子内部の様子が記述できないのなら、我々はいつまでも原子内部の様子を理解できないのではないか」という問いに答えて、ボーア曰く、

「いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。われわれは、その時こそ”理解する”という言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ」―(「部分と全体」W・ハイゼンベルク、山崎和夫訳、みすず書房

量子論は、われわれがある事柄を完全に理解することができるのが、それにも関わらずそれを語る場合には、描像とか比喩しか使えないことを知らされる1つの素晴らしい例だ。」―(出典同じ)

 まさしくこのことで随分と頭を悩ませているのだけど。

 予想外のことがたくさん起きる。
 いいことも悪いことも。
 ある事象が素敵であり、同時に素敵でない場合、僕たちはその贈り物を受け取るか受け取らないか悩む。


文学じゃないかもしれない症候群

朝日新聞社

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