メアリーおばさんの日課。あるいはクッキーの焼き方に関する話。

 昨日は京都造形芸術大学の卒展に行って、特に友達の作品から何かの影響を受けた。
 今日は伊藤若沖展に行って、展覧会にはなかったものの、すごい絵を見付けてその絵のポスターの付いてる本を買ってしまった。
 本当は色々なことを僕の頭が考えてくれているような気もするのですが、文章に書き下すことができない。明日は新しいバイトの2次面接があって、更にはその研修もあるので、多少気持ちが落ち着かないせいかもしれない。

 内田先生のブログを読んでいたら、夏に行われた集中講義で高橋源一郎さんが出された課題のことが載っていた。

 それは講義で取り上げた「舞姫」や「野菊の墓」「虞美人草」「金色夜叉」などの2004年バージョンを書きなさい、というもので、様々な設定が既に決まっているという制約の中で学生達は個性的な作品を提出した、という話で、僕の友人もその課題をやっていたので少し馴染みを感じる話題だった。

 この「制約の中で何かを作る」という話を読んで、僕は佐藤雅彦さんのことを思い出した。

 佐藤さんは”ポリンキー”や”バザールでござーる”なんかのCMを作った人で、今は慶応大で表現についての研究をなさっているのですが、佐藤さんが学生に

「垂直と水平の線だけで何かを表現せよ」

という課題を出したところ実にユニークな作品が制限時間内にたくさんできたのに対し、

「それじゃあどんな表現手段を用いても良いから何かを表現しなさい」

と課題を出すと制限時間を過ぎてもあまり作品が上がってこなかった、というのを読んだことがある。

 こういうのは経験的にも比較的スムーズに受け入れる事ができる。
 必ずしも束縛と自由というのは相反する訳ではないのだ。

 そして僕は、この現象が人生という流れ全体にも適応されるものだったらどうだろうかと考えた。
 それはきちんと考えてみる前から、どうやらこれは恐ろしいことではないか、と予感させるものだった。

 21世紀の初頭を生きている僕たちは「自由」に生きる事をまるで当然のこととして社会に要求するし、社会的な合意として「人は自由に生きるべきだ」というのはもう完全にできあがったイデオロギーになっています。

 でも、本当に自由に生きる事が人間のパフォーマンスを最大限に引き出したり、あるいは幸福な生活に繋がるのか、ということはそれほど吟味されていないように見える。

 昔、何かの本に、インドのカースト制度をみんな貶すけれど、実際のところは変な人生の迷いがなくて、自分の生まれながらにして定められた生き方を極めていく点で幸福なのだ、という話が載っていた。確かに色々な考え方がある。
 僕は誰がなんといおうと、極端な話、それが幸福へのルートではないとしても自由に生きる方がいいですが。
 (そういえば昔”職業選択の自由、アハハン”というすごいコピーがあった)