コーヒーと常識

 50日くらいコーヒーを飲んでいない。やめたのかと聞かれたら、やめたわけではないが欲しくなくなった。小説を書いたりするときに、ときどき行くお気に入りのカフェが家の近所にあって、そこは値段が高いこともあってスタバとかマクドナルドみたいに高校生の集団とかが騒いでいたりしないし、各席がゆったりとした空間を持つように設計されているので広々していて快適だ。そのお店にいるときは、リラックスしているけれど頭の芯には確かな集中が存在しているという状態になる。だから自然と身体の状態にも敏感になるのだが、この店でコーヒーを飲むと肌の表面が微かにピリピリするのを感じるようになった。最初は蚊とかダニみたいな有害で刺すタイプの虫にやられたのかと思ったがそうではなくて、コーヒーを注文しないでバナナジュースみたいなものにしたり色々試してみると確かにコーヒーと因果関係があるようだった。調べてみるとコーヒーを飲むと肌がピリピリするという人はそれなりに存在するようでなんとかという症状名が付いていたが忘れてしまった。それからなんとなくコーヒーがあまり身体に合わないのかもしれないなと思って飲まなくなった。その店以外の場所でコーヒーを飲むときは別の仕事をしているときとか、誰かと出掛けているときとかで、そういうときには適度な緊張があるので身体の細やかな感覚には意識が行かない。だからそういうときは平気だが、それは身体からのシグナルを無視しているだけなのだろう。そうして1週間くらいコーヒーを飲まないでいると、全く欲しいと思わなくなってしまった。僕はカフェインが効いてくるときの高揚感が好きだが、あのようにはっきりした高揚は身体には負担だったのかもしれない。それから焙煎で生じた何かが焦げた臭いや、どこかアルカロイドを連想させる味も苦手なような気がしてきた。

 実は自分がいつからコーヒーを飲むようになったのかははっきりと分かっていて、2010年の夏からだ。その時のことを僕はブログに書いている( http://ryotayokoiwa.hatenablog.com/entries/2010/06/13 )。コーヒーが飲めるようになったのは嬉しかった。大袈裟に言うと社会に受け入れられたような気がした。それまでいつも出されるコーヒーを丁寧に断って、店に入ってはメニューの端にお情けのように載っているオレンジジュースとかアップルジュースとかココアとかを飲んでいたが、これからはメニューの広大な領域を占めている多種多様なコーヒーの中から選択することが可能だ。一緒にアルコールを飲むよりも、一緒にコーヒーを飲む方が豊かなバウンドを人との間に築けるような気もした。誰か好きな人とどこかへ出掛けて疲れてきた時に、快適な店に入ってコーヒーを飲みながら話をして休憩するのは天国みたいな時間だった。まるでこの休憩をするために出掛けたみたいに、良質のコーヒーがもたらす休息は快適だ。
 コーヒーを飲むようになった僕は、ミルからドリッパーから一式買い揃えて近所の有名店で豆を買ってきて自分がベストだと思うブレンドを考えたりした。コーヒー淹れたよ、実はシナモンロールも買ってあるよ、と恋人に起こしてもらう朝は豊かだったし、丁寧に淹れたコーヒーというものには現代では見つけにくくなった誠実な豊かさの象徴みたいな側面がある気もした。
 
 だが、段々とコーヒーをこんなに誰もが飲んでいるのは異常なのではないかと思うようにもなってきた。その違和感は缶コーヒーのCMが癒やしだとか辛いサラリーマンの味方だみたいな明るい絵作りの実質的にはネガティブなものであることや、石油に次ぐ第2位の取引額という信じがたいようなお金が動いていること、コーヒー豆の産地の人々は低賃金でこき使われていて自分たちではコーヒーを飲んだことはないという話などから膨らみ始めた。街中にこんなにたくさんコーヒーショップがあって、大人になると大半の人間が焦がした豆を砕いたものの出汁を飲んでいて、そこから得られるリラックスと同時に覚醒作用に依存しているというのは異常だ。
 嘘か本当かは知らないが、戦争中は兵士の行動時間を伸ばしたり疲労を隠して気分を高揚させるために覚醒剤が使用されたという話があって、銃で撃ちあったりナイフで刺したりということはなくなったが経済だかビジネスだかなんだか、企業でこき使われて疲弊した人間がカフェインで疲労を誤魔化しているのはそれに似ているような気がした。覚醒剤には圧倒的な効き目があってピュアにドラッグとして扱われるが、コーヒーにはマイルドな効果しかなくその不足分がコマーシャルや雑誌で提供される物語性で補われる。スターバックスをテイクアウトしてシリコンバレーのIT企業やウォール街をコーヒー片手に闊歩するビジネスマンのイメージに自分を重ねあわせたり、都会のオフィスで良く考えてみれば何の意味があるのか良くわからない仕事を胃に穴を開けながらやって得た賃金で高いサードウェーブコーヒーを飲んで都会から少し離れた場所でオーガニックな丁寧な顔の見えるコミュニティに所属して生活するというトレンドにコミットしているような幻想を抱いたりする。
 
 いつからか、コーヒーは人々をこき使って作った、人々をこき使う為の飲み物というイメージが僕の中で形成され始めた。たとえば数年前の韓国ドラマなどではコーヒーがフィーチャーされたものが結構あるし、メディアに出てくるコーヒーのイメージはどれもこれも良いものばかりだ。特にサードウェーブコーヒーという言葉は新しい生き方、新しい丁寧な生き方に繋がっているようなイメージと強く結びついている。
 たぶんこれらは、僕がコーヒーを飲み始めたときに感じた社会に受け入れられたという感覚と無関係ではないはずだ。

 コーヒーという飲み物に違和感を感じるようになってから何度かコーヒーに凝っている人を批判するようなことを書いた。その批判の内容は、コーヒーは手軽な逃避場所で、好きだからあれこれ凝っていると言いながらそこに逃げ込んでいるのだが自分ではそのことに気付かないふりをしている、というようなものだった。これは相当に穿った見方だし、あとからこういう批判をしたことを反省した文章も書いた。コーヒーにはコーヒーの世界の広がりがあって、それが本当に好きだという人だっているだろうし、世界一のバリスタみたいなものを本気で目指している人達だっているに違いない。だが、コーヒーという圧倒的マジョリティとなっている価値観にコミットすることは幾分盲目的な危険を孕んでいるように思う。コーヒーという飲み物はあまりにも当たり前になっていて、大人になったら会社で働くとか、土日だけが休みだとか、子供は学校で国語算数理科社会を勉強するとかみたいな常識に近接している。常識というのは歴史的にみれば現代だけに限定された奇習でしかないが、その時代に飲み込まれている人はそれが高々数十年前から始まった習慣に過ぎないと気付かないのでそれに限定された範囲でしか行動できないで死んでいくという意味合いで危険なものだ。
 自分がいかに無知で馬鹿な子供だったのかを告白することになるのであまり言いたくはないが、小学生のときは毎日給食に牛乳が出て「牛乳は身体にいいし、飲まないとカルシウムが不足して骨粗鬆症という病気になって骨折しやすくなる」と学校で聞かされていたので、牛乳は毎日飲むものだと思っていた。日曜日とか夏休みに牛乳を飲まないとなんとなく不安で落ち着かない気分になった。僕は牛乳というのは毎日飲むものだというローカルな常識に侵されていてインターネットもなかった時代の田舎では誰もそれが馬鹿げていると教えてくれなかった。それどころか牛乳を飲むのはいいことだという風潮があった。当時の田舎の教師は本当に無知だったので、牛乳を飲むことができないと言っている子供にも「砂糖を溶かしてやったから飲め」と強制的に牛乳を飲ませていた。
 
 コーヒーを飲むのをやめたと決めたわけではないし、コーヒー批判をしたいわけでもない。文化というひどく曖昧な言葉を使うとコーヒーがもたらした一定の素晴らしい文化は確実に存在するし、これだけ沢山の人々の嗜好品になっているというのは物凄いことだ。それにカフェという場所がないと困る。
 昔似たような話をある人にしたら、「陰謀論とか好きなんですか?」と訳の分からないことを言われた。当たり前だがコーヒーを使って誰かが世界をコントロールしているというようなことを言いたいわけではない。しかし、「パンとサーカス」ではなく「パンとコーヒーとサーカス」というような言い方は案外的を得ているのかもしれないとも思う。(ちなみに陰謀論という言葉自体がCIAの発明だという「陰謀論」もある。人は何かがおかしいと思っても「それって陰謀論じゃん」と言われたら自分が気違い扱いされているようで何も言わなくなる。)
 
 ただ変な感じがする。道路を歩いている時に街中がアスファルトとコンクリートで覆われていることに感じる違和感と感じように違和感を感じる。アスファルトで舗装された道路から僕達は大きな恩恵を受けている、物流や交通といった社会的なことから、単に歩きやすいという日常レベルのことまで。2日間ほどずっと山の中を歩いていてアスファルトの舗装道路に出たことがあるのだが、あまりに歩きやすくて感動した。だからアスファルトの道路を批判したいわけではないけれど、世界の色々なところがこんなに舗装道路で覆われているというのは普通のことではない。それと同じように、世界中の色々なところでこんなにたくさんコーヒーが飲まれていて、しかもカフェインの薬効がカウントされているというのは普通のことではない。

FAB12, 深セン:その2

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 8月9日。朝9時にシェラトンへ。
 基本的に午前中は色々なプレゼンテーションを聞いて、午後はワークショップ、夜はパーティーというスケジュールになっている。
 この日、午前中のプレゼンテーションで、Fab2.0というものが宣言された。プレゼンターはFabLabの基礎を作ったMITのニール・ガーシェンフェルドで、「もうFab1.0は終わりにして、このFAB12からはFab2.0を始めよう。Fab2.0がどんなものか、詳細はまだ誰も知らないものだが、これから我々はそれについて考え手探りで立ち上げていこう」という感じの話だったと思う。
 FabLabは、MITの「ほぼなんでも作る方法」という講座や、貧困地域などにデジタル工作室(つまりFabLab)を作ったら地域の人達が地域の問題を解決する物を作り始めたという事実を元にして始まった。今ではFabLabの数は世界で1000に迫ろうとしていて、FAB12のような会議には何百人もの人が集まるようになっている。このFAB12の12というのは12回目ということで、たとえば横浜で3年前に同様のイベントが開催されたときはFAB9だったし、来年のサンティアゴでの開催はFAB13となる。FAB3とかFAB4みたいな初期を知る人は「いやあ、あの頃は20人とかしか居なかったから」と感慨深く教えてくれる。
 このFABなんとかが開催されて既に12年、FabLabの黎明期がだいたい2000年前後だと思うので、そこからだと約15年。仮にこれまでの期間をFab1.0と呼ぶのであれば、それは「買ってきた機械でFabLabで何かを作る」というものだった。これからのFab2.0では「機械も自分たちで作って、ひいてはFabLabをFabLabで作ろう」ということが念頭にある。本当はこんなクリアカットな物言いはできない。なぜならFabLabはその設立時から既に「ほぼなんでも作る」と言っていて、その中には当然「作るための道具」も含まれている。FabLabと言えば多くの人がイメージするであろう3Dプリンタにしても、元から「3Dプリンタで3Dプリンタを作る」という自己複製の機能がフィーチャーされて、それが生命体に似ているという指摘もあった。だからFab2.0という言葉は本質的には空虚だと思う。最初に「ほぼなんでも作る」と言った時点で意思表示のようなものは100%既に終わっていたと思う。とはいえ、あとから評論のようなスタンスで事態を分析したり整理したりするために新しい言葉が必要になることはある。その新しい言葉は、今ここにある運動を促進することもあれば、妨げになることもある。
 
 全ての言葉は、それがあるから遠くへ行けるという状況と、それに囚われてどこへも行けないという状況を同時に生み出す。
 何か特定の言葉や概念について深く考えるとき、僕達はアクセルとブレーキが両方共踏み込まれているやや矛盾した乗り物を操縦することになる。
 当然、それは一筋縄ではいかない。
 FabLabという言葉はこの10年で世界の一部を変化させた。デジタルファブリケーションだとか、パーソナルファブリケーションという概念がFabLabと共に世の中に浸透したことは、まだそれがドミナントではないとしても事実だ。大学の講義の1つでしかなかったものがFabLabという形で世界に広がり、その数が1000箇所に迫ろうとしていることからもそれは見て取れる。
 企業の作る大量生産された製品と、それを買って使うだけの消費者の間に横たわっていた溝は、20世紀の終わりまで深く広いものだった。大量消費社会を生きるほとんどの人はそこを渡ろうなんて考えることがなかったわけだが、FabLabはそこに橋をいくつか渡したし、実際にそれを渡る人達も少しづつ増えている。
 FabLabあるいはFABという言葉は、その様に特定の人々を遠くへ連れて行くという役割を果たした。
 だが同時に、それは足枷でもある。
 武術家でもあった伝説的で悲劇的なアクションスター、ブルース・リーは自らの武術体系に截拳道という名前を付けたが、「截拳道には形がない」と言っていた。武術というのは、ほとんどの人達が戦闘方法だと思っているが本質的には「ありとあらゆることに臨機応変即座に対応する」というものなので形なんてものは本当に持ちようがない。本当は名前すら持ちようがないわけだが、便宜的には名前がないと困る。だから名前は持つ、しかしそれに囚われてはいけないし、よもや形なんて設定してはいけない。そのような微妙なテンションの細い縄の上を、僕達は気を付けて歩かなくてはならない。
 なんとなくだが「これからはFab2.0だという言葉を聞いた時」、FabLabという言葉は微妙なテンションの細い縄から確固たる鉄筋の橋に変わりつつあるような気がした。それは窮屈さに似ている。
 
 その窮屈さは、少なくとも2つの観点から言える。
 1つは、Fab2.0がFabLabネットワークの中から自然発生して共有された概念ではなく、示唆とはいえ一部の人から宣言されたこと。
 2つ目は、Fab2.0の延長にある、人道支援や教育や環境問題やイノベーションといった「善良さ(と最近の社会ではされているもの)」が結構大きな声で叫ばれていたこと。
 誤解されると思うので書いておくと、僕は別にこれらを批判するつもりはない。特に2つ目に関してはきっと良いことなのだろう。それに嫌ならFabLabをやめればいいだけの話だ。ただ、FabLabはある特定のベクトルを持っていて、そこへ向かい進んでいるのだなと思った。丁度、FAB12前日にMaker Fairで見たなんでもありで闊達なMaker movementとは別の事象ではあると思う。Maker Movementは截拳道に似ているが、Fabは太極拳のようなものを目指しつつあるように見えた。
 
 深センが如何にMaker達の支援とイノベーションに力を入れているかとか、オブジェクト指向ハードウェアといった話を聞いたあと、余興として会場中で大量の毛糸の玉をあちこち投げ合うということが行われた。飛び交った毛糸が絡まり合って、それがまるでFabricationのようだということだと思うが、僕はみんなで何かさせられることに嫌悪感を持っているのでこういうのは御免被りたい。
 毛糸休憩のあと、Global Humanitalian Labなどの発表があり午前は終了。

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 昼からは「電気やガスを使わずになるべく快適にすごせる家」についてのワークショップに参加しようと思っていたのだが、待てど暮らせどワークショップ主催者はやってこないし、誰かがオーガナイザーの方へ確認しにいったが結局状況は分からず。「じゃあ、どこか他を当たる」と人々は去り(とは言っても、もともと人気がなくて2人だけど)、僕とイギリス人の男二人だけがその場に残った。どうして残ったのかというと、そのイギリス人が「電気やガスを使わずになるべく快適にすごせる家」どころか「電気やガスを使わずになるべく快適にすごせる村」を作るプロジェクトを推進していて、それを議題にして色々話そうということになったからだ。
 彼の名前を仮りにピーターだとすると、ピーターとはこのやり取りの中でかなり突っ込んだ話をしたと思う。水や有機物の循環について、お互いに注目しているテクノロジーやスタートアップ、書籍などの情報交換を行いながら話した。さらにピーターのプロジェクトは実際に動いているので、その写真なども見せてもらった。この過程で、僕はときどき親しい人には話しているある計画について、自分は意外と真剣にそのことを考えているし、これはきっと数年後に本当にやってしまうのだろうなと気付いた。これまでの自分の人生を振り返ると、いつもなんとなく思っていることを数年後、忘れた頃に本当にやっていることが多い。「あっ、そういえばこれって何年か前に思ってたことだな」と、ある瞬間に自分のしていることを認識する。どうやら流行りの「即行動、素早さこそ全て」みたいなタイプではないようだが、かといって何も実現しないということもない。FabLabに関しても、知ったのは5,6年前で、3年前の横浜FAB9には友達がいるからという理由でシンポジウムだけ聞きに行って、FabLab関内のオープニングパーティーに場当たり的に参加した。今僕はFabLab世田谷に所属していて、比較的近いFabLab関内の人達にはお世話になっているし、FAB12にはシンポジウムだけではなくフルで参加させて貰っている。
 多分、僕は今考えていることを本当に実行へ移すだろう。すぐではないかもしれないがそうなるのだろう。ピーターとの議論で、自分の持っていたアイデアが実は自分にとって結構な大きさだと気付いたことは1つの収穫だった。

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 続けて、たぶんFabLabバルセロナ辺りの人達がやっていた、ファブリック系のワークショップへ行った。
 FDM方式の3Dプリンタで布の上に何か印刷してるだけだと思っていたが、他にもコンブチャを使って革のようなものを育てていたり、自分の形のトールソーを簡単に作る方法を模索していたりと広がりがあった。
 
 夕方からはホテルのプールに移動してプールパーティーの予定だったが、天気が良くないということで室内に変更。同じ場所なので、まるで昨日の夜かのように既視感のあるパーティーになった。

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FAB12, 深セン:その1

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  2016年8月8日から15日までの1週間、中国の深センに滞在した。FAB12という年に一度開催されるFabLab世界会議に参加する為だ。FabLabというのは、3Dプリンタをはじめとしたデジタル工作機器から金槌のような道具までを備えた工房のようなもので、世界中に1000近いFabLabが存在している。世界のFabLabは名目上ネットワーク化されていることになっていて、そのネットワークに参加している人達が年に一度集まるというのが今回のイベントに当たる。

 FAB12がはじまる丁度前日、8月6日、7日がMaker Fair Tokyoだった。僕は7日に少しだけMaker Fair Tokyoに行き、そのまま所用を片付けて夜中の12時過ぎに成田第二ターミナルへ到着。ターミナル内にあるカプセルホテル「9hours」に泊まる。フライトは8日の朝で、家からでも始発に乗ればギリギリ間に合う筈だったが、何かあったら終わりなので念の為に一泊することにした。9hoursはデザインカプセルホテルといった謳い文句のホテルだが、ロッカーとカプセルがとても遠くて使い難いし二度と泊まることはないだろう。ずっと忙しかったので、出国前にこれ以上疲労したくないと思いホテルを取ったのだが、どうせ6時間程度寝るだけだったので、こんなホテルなら空港のベンチでも良かったなと思う。 
 8日、早朝の空港内シャトルバスで第一ターミナルに移動して、待ち合わせなどを済ませてチェックインする。
 飛行機は中国国際航空で、利用するのははじめてだった。中国国際航空のサイトによれば機内持ち込み手荷物は「5キロまで1つ」となっていて結構厳しい。僕は余程のことがない限り、原則的には機内持ち込みの荷物だけで旅行をすると決めているので、それを読んだ時一瞬怯んだ。いつもはなんとなく大丈夫だろうとパッキングしているけれど、今回はきちんと測ってパッキングすることにした。バックパックにMacBook AirとACアダプターを入れるとそれだけで既に2.4キロ。残り2.6キロで勝負しなくてはならないので、あまり余計なものは持っていけない。
 結局、荷物は5キロに収めたが、実際の搭乗に際しては重さも数も大きさもあまり気にされないようで、みんなてんでバラバラ自分勝手に色々なものを持ち込んでいた。飛行機では他のFabLabの人達とも一緒になり、さらに昨日のMaker Fairでも一緒だった人達なので、そういう日程の最中だなと思う。

 

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  深センを訪ねるのは、3年ぶりだ。3年前、僕達は一緒に暮らしていた友達6人で香港へ遊びに行って、そのついでに深センまで船で行って数時間滞在し、電車で香港に戻った。当時の僕は深センがどういう位置付けの都市なのか全然知らなかった。世界最大級の電気街、華強北路(ファーチャンペー)を擁する製造業の街でハードウェアのシリコンバレーなどと呼ばれていることは知らなかったし、わずか30年で何もない場所に出現した高層ビルの並ぶ都市だということも知らなかった(1980年に経済特区に指定されて急激に発展した)。友達の1人がどうしても行きたいというので「世界の窓」というチートなテーマパークへ行っただけだ。世界の窓というのは深センの有名観光スポットだが、たとえばスフィンクスとかエッフェル塔みたいなものをサイズダウンしたレプリカがいくつも置いてある遊園地で、完全に子供騙しだった。その1人の友達が「ネタ的に」そこへどうしても行きたいというので、他の5人は渋々着いて行ったのだ。どこへ行ったって楽しく過ごせるメンバーだったのでそれなりには楽しかったが、僕達は深センまで足を伸ばして街の特性を一切目にすることなく戻ってきたことになる。
 そのときの深センの印象はただ1つ「建物が巨大」というものだった。
 今回もやはり建物が巨大だと感じた。未来的な形状の深セン国際空港から地下鉄で1時間ほど、ホテルのある華強路駅で降りて地上に出ると深南中路という大きく真っ直ぐな道路の両サイドに高層建築物が立ち並んでいて、その眺めはずっと遠くまで続いていた。遠くの方はスモッグか何かで霞んでいる。すでに昼下がりだったが、日差しは南国の強度を持ってして地面に突き刺さっていて、僕はSPF50の日焼け止めを塗ってサングラスを掛けた。自動車と電動バイクと人々が混沌と移動する逃げ場のない炎天下を歩きホテルを目指す。信号が意味を失っていて、自動車と電動バイクと歩行者がお互いの隙を突いて移動する光景はいかにもアジアぽく、なんだか肩の荷が降りたような気がする。心の中のある部分が開放されてすっきりとした快適さが背骨を駆け抜ける。

 

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 ホテルにチェックインして、一休みし、再び地下鉄に乗ってFAB12の会場へ向かう。といっても今日の予定は夕方からのパーティーだけだ。会場はシェラトンで地下鉄は2駅離れた会展中心(Convention and Exhibition Center)。一応ファイブ・スター・ホテルなので、随分豪華なところを会場にしたのだなとは思っていたが、正面入口とは別の入り口から入った僕達には、ここがFAB12の会場だとは認識できないくらい豪華なところだった。きっと間違えたところに来てしまったに違いないと思いながら、ビシっとタキシードみたいな服を着込んだ”ここで働いている人”風の男の人に「あの、シェラトンの6階に行きたいのですが」と聞いていみると、「それはここです」ということで、すぐ近くにあったFAB12の受付まで案内してもらった。

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 そうそう、こういう感じだ。
 受付付近には多種多様な人達が集まっていて、ほっとする。そしてメイン会場の豪華さに、また吃驚する。会場が豪華なことは嬉しいことだけど、少しだけ違和感もあった。何もファブとかメイクとか言っている人間は慎ましくしているべきであると言っているわけではないが、豪華絢爛なのはどこかそぐわない。
 受付を済ませて、例の冊子とか記念品の入ったトートバッグとパスと記念Tシャツを受け取って、適当にその辺をウロウロしている人達と話をしたりしてパーティーが始まるのを待っていたら、いつの間にかワイングラスを持っている人が目に入るようになってきて、いつの間にか立食の食べ物を持っている人達が目に入るようになってきた。そうして済し崩し的に何のアナウンスもないままパーティーは始まっていた。

 パーティーでは色々な人に会った。懐かしい人にも、昨日のMaker Fairで会った人にも会った。「良太!」と呼ばれたので誰かと思えば、4月に台北で会った女の子で驚く。今回のスポンサー企業の1つに就職したらしい。人事ながら4ヶ月で人は全く変わった環境に身を置いていたりするのだなと思う。

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 済し崩し的に始まったパーティーは、簡単なアナウンスと共にこれも済し崩し的に終了を迎え、僕達はまた地下鉄に乗ってホテルへ戻った。
 まだそれ程遅い時間でもなかったので、1人で外へ出て、セブンイレブンでアイスクリームを買いホテルの周囲を散策してみる。街には活気と気だるさが同居していて、その辺に座ってビールを飲んでいる人達や、上半身裸で電動バイクに乗っているおじさん、どうしてこんな場所でと思うところでバドミントンをしている子供とかがいて、鳴り止まないクラクションが煩いのに身体がリラックスするのを感じる。ここは相手の心を慮り自己の利益を最大化するための自然な誘導方法を構築することがデフォルトである日本語の外の世界だ。
 ココナッツのアイスキャンデーが溶けて来て、残りの大きすぎる塊を全部口の中に入れてしまった。冷たいほっぺたにアジアの暑く湿った空気が心地いい。

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台湾旅行記2:歴史と輪郭と現在

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「二十歳まで日本人でした」と彼女は言った。70年という長い時間が経過して、20歳の女の子は90歳を過ぎたおばあさんになり、そして僕の隣に座って食堂の説明をしてくれている。70年という時間の重みを忘れさせる程、日本語は流暢だった。「向こうも一緒に見ますか」と尋ねて頂いて、店内を一回りした。落ち着いていて小柄で、老人だけが持つことのできる独特の強靭さを感じる。彼女は始終笑顔できれいだった。

 僕はそわそわとして落ち着かない気分になった。二十歳まで日本人だったという台湾人のおばあさんを目の前にして、どのように振る舞い何の話をすれば良いのか良く分からなかった。聞きたいことはたくさんあったけれど、それらを聞いていいのかどうかも良く分からない。
 歴史を知ることは難しい。子供の頃は素直に歴史の本を読めば良いのだろうと思っていたけれど、大人になると全ての本にはバイアスが掛かっていて何も分からないと思う。特に歴史に関しては「Aであった」という主張と「Aではなかった」という主張が学術性の外側で一つの思想的な争いとして繰り広げられていて、利益争いのような側面も垣間見てしまう。中途半端な勉強では本当のことを知ることは難しい。かといって、一次資料を探したりして専門的に研究しようとは思っていない。
 だから、もう面倒になって、年表のようなざっくりとした構図だけを知っていれば、もう後はいいや、と思いたくなる。だいたい、過去には僕は居なかったじゃないか、過去は過去であり、今は今だ、と思いたくなる。
 けれど、このそわそわする感じは、僕には関係のなかったはずの70年以上前の日本がやはり僕にも関係のあることだと思い知らせてくれた。過去は今へと繋がっていて、それは当然のことなのだが、面倒なので目を閉じていたのだ。
 
 このおばあさんに会ったのは、今回の旅で最後に訪ねた街、高雄でのことだ。
 台北、台南、高雄の3都市を回って感じたのは、南へ行くほど「日本との過去」を強く感じるということだった。逆に、南へ行くほど日本人を見かけなくなる。台北ではたくさんの日本人観光客を見かけたが、台南では1人だけ、高雄では都市部中心地へ行っていないこともあって日本人らしき人を1人も見なかった。南へ行けば行くほど、現在の日本人は少なくなり、日本の過去が強く浮かんでくる。

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 日本人である、ということに関して、台南では少し不思議なことがあった。
 もしかすると気のせいかも知れないけれど、一度だけ僕達は「ヤーパン」と呼ばれたような気がする。
 僕は中国語がほとんど分からない。「こんにちは」とか「ありがとう」とか「これを下さい」とか、そういう旅行会話みたいなことも満足にできない。さらに台湾語となると全然分からない。(もっと付け加えると、昔中国語を勉強しようとしていた頃、シンガポール人の友達に「良太は中国語の発音終わってるから中国語は諦めた方がいい、何言ってるか全然分からない」と終止符を打たれたことがある。)
 だから本当に僕の聞き間違いである可能性も否定できないのだけれど、状況としては年配のおばさんが店の奥に向かって「なんか日本人が来たんだけど」という感じのことを言ったような感じのする場面で、彼女は「ヤーパン」と言った気がする。台湾語の会話の中で「ヤーパン」という聞き慣れた単語だけがフレッシュに耳に飛び込んできた。ヤーパンというのはJapanのオランダ語とかドイツ語とかの読みだ。日本を指す言葉には流石に反応してしまう。これが中国語で「リーベン」と言われていたら、ふーん、と思って終わりだっただろう。「ヤーパン」だったので違和感があった。 
 そのお店は、たぶん完全に地元の人が営業している地元の人の為のお店で、満席に近い店内(とは言っても半分外だけど)に入ると僕達は少し珍しそうに少しジロジロと見られた。「ヤーパン」の席に注文を取りに来たおじさんも数字以外の英語を理解しているのかどうか怪しい。だから、無論偏見ではあるが、このお店の人がオランダとかドイツと親交があるとは思えなかった。生まれてこの方ずーっとここに住んでいて、ずーっとこのお店をやっているという感じだった。
 なのにどうして「ヤーパン」なのだろう。やっぱりただの聞き間違いか。

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 翌日、僕達は「安平老街」というエリアまでバスで出掛けた。
 僕達が持っていた台湾のガイドブックには「バスはややこしいし、タクシーは安いからタクシーに乗りなさい」と書いてあったけれど、台南ではバスを多用して、お陰で街のことが少し分かった気がする。ちなみに台南には街の中を移動できる地下鉄のような電車はないので、公共交通機関はバスだけだ。日本と違って、バス停にいても、タクシーを拾う時のように手を上げて合図をしないと止まってくれない。実はこの日、安平老街の後に行った場所で、僕達はバス停にいたのにバスを逃した。兎に角どんどん歩いてみようかと、夕方で幾分暑さが和らいだのをいい事にかなり辺鄙なところまで行ったときだ。空き地と家しかなくて、ときどき遭遇するのはバイクと野良犬ばかり、暗くなって流石に心細くなって、もう歩くにもクタクタ、という時に見つけたバス停で「ルート変更のお知らせ」みたいな表示を読んでいたらバスが通り過ぎてしまった。次のバスは随分待たなくては来ないし、バス停の周囲には何もないし、こんなところでずっとバスを待ってなんていられないと僕達は渋々また歩く羽目になった。

 安平老街にバスが近づいて、なんとなくこの辺りのバス停で下りようかと降車ボタンを押して前の方へ移動すると、近くに座っていた中年夫婦のおばさんが「あれっ、ここで下りるの?どこ行くの?」と話掛けてきた。特にどこってわけでもないけれど観光地みたいだから来ました、と言うと「じゃあ、ここじゃなくてもっと先で、私達と一緒のところでおりましょう」と言って、運転手に何やら説明してくれた。
 おばさんとその夫と運転手はずっと楽しそうに話していて、ときどきおばさんが英語でこちらにも話を振ってくれて、なんだか分からないけれどワハハハと愛想笑いを浮かべながらさらに5,6分のバスライド。
「ここで、降りましょう」
 おばさん達が目的としていたバス停は、まさに観光地のど真ん中で、バスに乗っていたほとんどの人達は僕達と一緒にそこで降りた。日本の7月とか8月みたいな炎天下にものすごく沢山の人達が楽しそうに歩いている。おばさん達とはしばらく一緒に歩いて、お礼を言って別れた。「安平古堡には行ったほうがいいよ」ということだたので、安平古堡へ行ってみる。屋台のたくさん出ている通りではどうしてか韓国の細長いソフトクリームのお店を結構見かけた。あと、誰がこんなところで買うのか分からないけれど掃除機を売っている屋台とか。

 安平古堡は観光名所になっている史跡なわけだけど、予備知識を持たずに行った僕達は説明書きを読んでびっくりした。
 1624年にオランダがここにレンガ造りの城を建てて台湾を統治していて、1661年にはオランダは鄭成功に追い出される。鄭成功の時代が20年くらい続き、その間はこの建物も使用されていて、その後は廃墟と化した。さらに日本統治時代には、オランダ時代のものを破壊して日本式の宿舎に改築。
 つまり、その後台湾時代になってから補修などが行われたといっても、僕達が見ているものは基本的には「日本」が作った建物だった。

 台湾の東側などへ行けば、もっと話は違うのかもしれない。
 ただ、僕達が今回訪ねた台湾南部の観光地には尽く日本の影があった。
 史跡を訪ねなくても、日本の影は街の至る所で見える。ホテルでテレビを点けていると日本語が聞こえてくることもあるし、コンビニに入れば日本と同じものが日本語のパッケージに入ったまま売っている。くまモンとかフナッシーは至る所で見かける。ひらがなの「の」は僕達が英語のbyとかandみたいな前置詞を日常的に使うのと同じ感覚で普通に使われている。バスの路線図を眺めていると若いカップルが「大丈夫?」と日本語で話掛けて来てどのバスに乗ればいいのか教えてくれる。
 でも、それとこれとは別の話だ。
 かつて日本統治時代に作られた沢山のものが残っていて、それが観光地になっている。電車に乗っていて駅舎が懐かしいと思えばそれも日本統治時代に作られたものだった。僕の知らない古い日本がここにはあって、それらが突きつけてくる関係ないはずの懐かしさを前にしてしまうと、生まれる前の無関係なことだとはもう言えなかった。
 それから、日本統治時代のもっとずっと前のオランダ統治時代。昨日のヤーパンに関係あるのだろうか。まさか、それにしては時代が古すぎる。

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 少し話は逸れるのだが、京都から東京に出て来た時、街が「古い」と感じた。むろん表参道などに面した最新の商業地域は別として、ちょっと路地裏に入ったり、電車から外を眺めていたりすると「古い」と感じる。京都にはきっともっと古い建物が身近にあるのだけど、それらはもう所謂「古すぎて逆に新しい」ものだった。1200年前の平安時代に関してはもう新しいとか古いとかではなくて「何か別の世界」だし、そこまで行かなくても歴史ある何かは「歴史的な」というジャンルに括ってしまうことができる。
 東京には数十年前の建物がたくさんある。小津映画に出てくるオフィスビルみたいなのがたくさん残っている。それらは今と地続きな分、余計に古く見えて、さらに良く分からないノスタルジーを喚起する。
 
 台南はそういう懐かしい東京に似ていた。林百貨店というデパートに入ったときは自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。なぜならそこには日本としての歴史みたいなものが織り込まれていたからだ。
 林百貨店は1932年に山口県出身の実業家、林方一が作った。そして戦中には米軍の空爆も受けていて、敗戦とともに廃業。廃墟となっていたものを2010年から台南市が2億7000万円かけて修復。2014年に晴れて店舗として再開。内装は、「あの時代の洋館」そのままだ。僕はこういう建物を廃墟としてしか見たことがなかった。それが今生きて目の前にあり人々で賑わっていた。建物の亡霊に飲み込まれて夢を見ているのではないかと怖くなるくらいに。

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 高雄では旗後砲台という砲台を訪れたのだけど、ここも行ってみると「日本軍によって爆破された」とか書いてあって、かなり複雑な気持ちになる。いろんなところで過去の日本というものが観光名所という形で僕達に話しかけてくる。
 そして段々と、「日本の形」が分からなくなってくる。そういえば、北海道へ行った時も沖縄へ行った時もなんとなく「こんなに景色や背景の違うところまでシンプルに”日本”でいいのだろうか」と思った。もちろん国内として訪ねることができるのは便利でラッキーだけど、なんというかもっと別の名前の元に尊重されるべき生活がそこにはあるような気もした。韓国に行った時も、あまりに日本に似ているので、ここは本当に単なる”海外”としておくべきところなのだろうかと思った。
 国境という勝手に引かれたラインをファジーに捉え直すと、滑らかに繋がり、緩やかに変化していく文化圏としてのローカルが浮かんでくる。最近では「3万年前の台湾から与那国への航海を再現する」というプロジェクトがあるけれど、そういうものが象徴する「国家間の繋がりという国際」ではなく、ただの地域間の、あるいは移動する人々の間の繋がりというものが可視化されると世界の風通しがぐんと良くなる気がする。

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NEXUS5バッテリーマウント作成

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 まったくもってダサいのですが、NEXUS5のバッテリーマウントのようなものを作りました。
 僕はSIMフリーのNEXUS5を使っていて、古い所為もありバッテリーの持ちが良くない。バッテリーを交換しようかとも思ったのだけど、その程度の改善ではきっと旅行やなんかへ行った時にどっちにしてもモバイルバッテリーを使うことになります。
 そして、モバイルバッテリーは手に余る。

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 きっとこんな感じでスマートフォンとバッテリーをケーブルで繋いで、充電できるのはいいけれど扱いに困っている人はたくさんいると思います。
 無論、それを解決する為のグッズとしてバッテリー内蔵のスマートフォンケースなども出ていて、いくつかの機種に応じたものが販売されています。NEXUS5の為に作られたバッテリー内蔵ケースも売っているのですが、既に時代遅れの機種になったせいか、もうアマゾンでさっと良さそうなものが買えるというわけでもなかった。
 なので、薄いモバイルバッテリーを買って、それを保持する器具だけを3Dプリンタで作ることにしました。

  購入したのは、この薄型モバイルバッテリー。アマゾンで999円。2500mAhなので、内蔵バッテリーが2300mAhのNEXUS5を一回フルチャージできます。これを2つ。便利なことにmicroUSB端子は本体に付いています。 

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 このバッテリーがNEXUS5の背面に固定されるような器具の3DデータをFusion360で作ります。

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 そのデータをFabLab世田谷のFDM方式3Dプリンタ、AFINIA H480で出力。

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 このようにバッテリーを中へ収め、

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 あとはスライドさせてNEXUS5に取り付けます。

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 これでバッテリーとスマートフォンが一体化して扱うのが楽になります。ポケットにも無事に収まります。予備のバッテリーもあるので、かなりの酷使にも耐えうるはずです。
 格好は悪いですが。

起こり、消えた全ての事象の漣

 同じ時期にすぐ近くの研究室で博士課程にいた友人が、学位を取った後4年ほどヨーロッパやアメリカへ行って、この春日本に戻ってきた。丸の内で久しぶりに会って話をしていると、彼女は僕が全く思いもしなかったことを教えてくれた。話の発端は、「正しい修復」という言葉だった。彼女は文化財修復の研究者で、色々な国に色々な流儀というか正しい修復の基準があって、特に日本は変わっている、というようなことを言った。「ちょっと待って、正しいも何も、修復って元に戻すことなわけだから、それが作られた新品の状態に近づけるのが”正しい”ということで、いくつも基準があるというのは理解できない」と、僕は話を遮った。
「ああ、そう思うんですね。それは違うんですよ」
「えっ?!」
「新品の状態にしちゃいけないんです」
「えっ?!」
「たとえば500年経ったものなら、500年経った状態にしておかなくてはいけないんです。私が今、このテーブルの上で何かの修復作業をしていて、ケチャップを溢して汚してしまったとするじゃないですか、その汚れはキレイに取ります。でもそうじゃないのは、どれを取り除いて、どれを残すかという判断が入ってきて、結局は人間の主観が入ります」
「ああ、そうか、その物に刻まれた歴史は取り除いてはいけないということだよね。ケチャップは取り除いていいけれど、それがナポレオンの血だったら取り除いてはいけないというか、ナポレオンが零したケチャップだったらそれも取っちゃ駄目かもだし」
 もちろん、500年前に作られた何かに、現代の修復家が間違えてケチャップをかけてしまったというのも、その物に刻まれた歴史の1ページではある。もしもその修復家が後に「歴史的な」大人物になればそれこそ。だが大抵の場合、それは「歴史」にカウントしないということだ。歴史を編むときの主観が、ハードエビデンスである物品の修復にも入って来るなんて思いもしなかった。過去というものは、僕達が思っているよりもずっとずっと恣意的なものなのだろう。
 
 網野善彦の本で「百姓というのは”普通の人”みたいな意味だったのに、ある論文で間違って”農民”としまったのが広まって、いつの間にか昔の日本人は農民ばかりだったという誤解が生じた」というのを昔読んだとき、とてもびっくりした。歴史のことは、というか過去のことは僕には分からない。専門家ではないから分からない、というわけでもなく、過去のことは本当は誰もに分からない。だから「網野史観を支持するのか」と言われたら、僕には判断する根拠も何もなく、特に支持するというわけではないが、網野さんの本を読んだときのスカッとした感じは今も結構はっきり覚えている。当たり前のことだけど、今も昔も色々な人がいて、世界も社会も複雑だ。
 あの時のスカッとした感覚は、白黒の世界からカラーの世界へ飛び出した開放感に似ている。
 小さな頃、テレビやなんかで見る「昔」は全部白黒の映像だったので、「昔は色がなくて暗い世界だった」と思っていた。もちろんそんな訳はなくて、大昔から空は青く、晴れた日は明るく、森は緑だったし花は鮮やかだった。着物には色と模様が染められ、彼女はゴーストではなくキュートな生身の女の子だった。
 
 複雑なものを複雑なまま扱うことは至難の業で、僕達は歴史のことも勝手にシンプルに整形して理解しようとするし、その土台にはあの忌々しい義務教育とかいうので叩きこまれたフォーマットが根を下ろしている。
 歴史という言葉を「人類のこれまで」と捉えるとすると、それは端的にこれまでの全てなので分かりようもなく、さらには分かったとしても情報が多すぎるので一人の人間には認識することができない。500年前あの場所で何とかという名前の男が魚を食べたとか、2000年前この場所で誰々が枝の先を削っていたとか、そういう「重大ではない」全ての営みについて一々構っていられない。
 だが、それらがこの世界でかつて起こったのは事実だ。
 重大ではない、それらの全ては現実に起こり、そして消えた。
 その些細なすべての物事の影響は、カオスの縁を乗り越えて今日に作用を及ぼしている。
  
 「歴史あるなんとか」という言葉使いがあるが、歴史のないものはこの世界に存在しない。今日、さっき、これまでの人類の営みとは全く関係を持たずに社会に到来したものなど存在しない。全ての物は「歴史的で伝統的」だ。わざわざ「歴史ある」とか「歴史的な」とか、あるいは「伝統的な」とかいう形容が用いられる時、そこには「私があなた方に認めて欲しい」という更なる形容が隠されている。
 
 伝統や歴史を重んじるのであれば、ゴミ箱に大量に放り込まれているペットボトルはサイエンスとエンジニアリングの伝統の奇跡的な結晶だ。無色透明で軽くて強靭で液体が漏れず極めて安価で大量生産が可能な超高性能な容器は、古代から脈々と続いてきた数学や化学や機械工学の粋であり数千年の歴史が生み出したものだ。
 
 伝統工芸の漆塗りとか焼き物とか祭りとか踊りとか着物とか、それが伝統だから大事だという主張は、だから変だ。「伝統だから大事」なのではなく、「私が大事にしたい伝統だから大事」という話で、つまり「大事にしたいから大事にしたい」ということでしかない。それは個人やある特定のグループの人達の望みだ。
 絶対に誤解されると思うので断っておくと、僕は「本当は特定の人達の望みや欲求にすぎないものを、伝統という言葉で正当化しているのが嫌だ」ということを言いたいわけではない。
 僕が嫌なのは「”私達はこうしたい”という主張が、”伝統的だから”という本質的には何の意味もないエクスキューズに包まないと主張しにくい」という風潮そのものだ。
 
 「私はこうしたい」「私達はこうしたい」という欲求や希望は、本当はとても重要なものだ。「今、ここにいる私が、こうしたい」は歴史とか伝統とかよりずっと大事なものだ。だけど、それをそのままストレートに主張することは何故か憚られる、「伝統を守る」「社会に貢献する」とかなんとか耳障りが良くて誰もがなんとなく納得する言葉を付け加えなくてはならない。プレゼンテーションの最後はいつも「社会を良くする」だ。
 漠然と伝統という言葉を使うのであれば「おじいさんも、お父さんもずっとやって来た”伝統的な”祭りだから僕もやりたい」という感じの主張は有り得る。けれど、フィーチャーされるべきは「伝統を守るため」ではなく、「僕もやりたい」であった方が「僕は嬉しい」。
 そうでないと息が詰まりそうだ。
 もっとも、僕達が生きているのは裸で出歩いたら逮捕されるという、既に冗談みたいなシステムの中なわけだけど。

 

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

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台湾旅行記1:台北巨蛋(台北ドーム)

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 もう季節が変わってしまったけれど、4月に1週間ほど台湾へ行っていた。成田から桃園国際空港へ飛んで、バスで台北まで行き、そのあと新幹線を含めた電車で台南、高雄と移動して、高雄国際空港から成田へ戻ってきた。
 訪ねてみる前から、台湾というのは、すでにとても身近な国だった。台湾人の友達も何人かいて話もそれなりには聞いていた。日本と台湾の間にある重たい歴史のことも少しは知っているつもりだった。
 実際の台湾は、僕が思っていたよりもずっと日本との関係が深く、そしてずっと素敵なところだった。
 旅の全容は既に記憶からどんどんと溢れていて、断片的に印象に残っていることを書いていきたい。

 

 台北は現代的な大都会で、眺めているだけで楽しい商業施設もたくさんある。南国の雰囲気と先進都市が理想に近い調和を生み出している。ただ、台北で最も驚いたのは突然現れた巨大な廃墟を目にしたときだ。
 僕達は、華山1914文創園区のFabCafe Taipeiなどを訪ねた後、今度は松山文創園区へ向かっていた。ちなみに華山1914文創園区は酒工場跡地をリノベーションして作られた「文化的な」施設で、松山文創園区はタバコ工場の跡地をリノベーションして作られた同様の施設だ。リノベはどこもかしこもアートとか文化とかそういった類のものになるので詰まらない気もするけれど、まあ豊かさとはそういうものなのかもしれない。どちらも今風にきれいにできている。この辺りのトレンドは日本と完全に同じだった。
 通りを歩いていると、突然ビルの影に巨大な廃墟のようなものが見えた。通りといっても、街外れの寂しい道路ではなく都会の中のストリートで、その廃墟は特別場違いに見えた。

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 廃墟ではなく、建造中の何かなのかとも思ったが、誰も作業をしている人はいなかった。一見、何も動いていない。そして鉄骨の材はすでに錆び付いている。これは一体なんだ? どうしてこんな街の真ん中にこういった巨大な廃墟があるんだと思って調べてみると、どうやらこれは「台北ドーム」と呼ばれるものらしいと分かった。20年ほど前から計画されていた台湾初の室内ドーム球場で、2016年の4月、つまり僕が訪ねているまさにこの時が完成予定だった。工事は2013年に着工して、2015年に頓挫している。頓挫というのは、正確には台北市から停止命令が出ていて、その原因は工事の杜撰さということだ。図面と施工が違う、建築基準法違反、周辺での地盤沈下や地下鉄トンネルの歪みなど。ドーム反対派のでっち上げだという話もあるようで、蚊帳の外からでは何が本当かは分からない。それにしても随分と大きな廃墟を台北市は抱え込んだことになる。

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 台北ドームの建造には日本の大林組も関わっているとどこかの記事には書かれていて、そういえば僕はこの廃墟を目にする直前、「大林組」と描かれた工事看板を見つけて「あっ、大林だ」と写真を1枚撮っていた。関係ないのかもしれないけれど。

 

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 このドームは2017年のユニバーシアード会場にもなる予定だった。

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 これから、このドームはどうなってしまうのだろうか。何かに利用するのはとても難しそうなので、きっと取り壊しになるのだろう。それにも莫大な費用が掛かる。
 完成することのなかったこの廃墟は、街角に重たい痕跡をめり込ませながら、それでも景色としては松山文創園区に溶け合っているようにも見えて、なくなればなくなったで寂しいような気もする。

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