連載小説「グッド・バイ(完結編)」15

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・コールド・ウォー (四)

「お見舞いに持っていった饅頭を、あなたが食べて、意地汚いケチね、いつも。」
 帰りに入った蕎麦屋で、キヌ子が鴉声を出した。五千円以上は、水の一杯もキヌ子に与えるつもりがなかったのに、気持ちがしおれて、思わず蕎麦屋へ。田島が言い訳をする間もなく、「あの女の人も、詰まらない人だったわね、物悲しそうに。天麩羅も頼みます」
 またしても鴉声はたくさんお食べになる。お洒落な田島は、腹が立つより恥ずかしくなった。飲んでやれ。
「あの、それから、お酒を。」
「あら、あなたは、いつもお酒で誤魔化すのね」
 鴉、常に、ここへ、在り。
「あの人が可哀想で、自分が残酷なのを、素面では見れないんだわ」
「違う、君、天麩羅かってに頼んで、これは自分で払ってもらう」
 また、誤魔化した。
 三十四年間、田島周二、誤魔化しの日々。
 キヌ子に天麩羅まで喰われて、悲痛の酒を飲むのであれば、さっさと、まっすぐに帰れば良かった。田島は後悔した。しかし、帰っても、どうする? 話す相手が、誰もいない。あの厄介な文士連中は、肴にするだけ。「そんなに心痛むなら、兵隊の兄に、思い切りぶん殴ってもらえ。」
 無論、他の愛人達に慰めてもらうなんて論外。気の置けない友の一人もなし。ああ、新しい愛人でも作って。否、否!

 田島の話相手は、キヌ子の他、誰もなかった。
 永井キヌ子、容姿は抜群。声は台無し。教養もなし。でも、事情を全部飲み込み、意外に正しそうなことも言う。せめて、こんなに金が掛からなければ。もっと、仲を深めるよう努力し、善意の協力を引き出すのが良かろうか。
「きみ。」田島はいやらしい声を出した。
「何よ、天麩羅は払わないわよ。」
「天麩羅は、もういいです。ついでに、お酒も、飲みませんか?おごります。」
「要らないわよ、あなたからお酒なんて、死んでも飲まない。」
「いや、この前のことは、あれは間違いで、酔っ払っていたものだから、今日はほんの労いの一杯」
「前のことなんて、覚えてやしません。労いだなんて、どうせ誤魔化すつもりのくせに。お酒を飲ませるお金があるのなら、一日五千円じゃなくて一万円お出し」
 出た。底なしの強欲の恥知らず。
 だが、撥ね付けるのも威勢が悪い。正直、田島は孤独だった。
「君ねえ、これは裏のない、本当にまっさらな、僕からの慰労で、時には人を疑わず、素直に受け入れるのも大事じゃあないですか。僕は今、真剣だ。」
「あなたが、まっさらな気持ちで、何かできるはずありませんから。泣きそうな演技も無駄よ」
 自分が泣きそうな表情を浮かべていることを、田島は知らなかった。狼少年の、声はただ疑われ。顔も疑われる。田島は、もう本当がない。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」14

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・コールド・ウォー (三)

 ケイ子の兄は、予想以上の大男であった。これでは、いざという場合に、キヌ子の怪力も通用しないのではないか。田島は不安になった。キヌ子の方では、一向に気を留める様子なく、約束通り黙って澄ましている。それもそのはず、ケイ子の兄から暴力乱暴を受ける人間は田島であって、キヌ子ではない。キヌ子は、なんであれば、助けないで、ただ袖からでも見ていればいい。もとより五千円だけの関係。しまった。が、もう遅い。ケイ子の兄は、キヌ子の美貌になんらの注意を払う様子なく、田島とキヌ子を奥へ通した。

「風邪は、もう良くなりましたか。」と言いながら部屋に入る。ケイ子は薄い蒼の布団へ座っている。田島を見て、そしてキヌ子を見ると、不安定な表情が過ぎった。キヌ子が優雅にお辞儀をして、ケイ子はおずおずと会釈を返した。
「いやあ、ほら、田舎の女房をね、呼び寄せたから、挨拶に来ましたよ、お見舞いも兼ねて。」
 田島は、キヌ子に目配せをして、持たせていた花園万頭を渡すよう促した。見舞いの品と見せかけて、泣き止ましの薬である。もしも、泣き虫のケイ子が泣き出したら、兄が気付く前に饅頭を食わせ気分を落ち着ける魂胆なのだ。女は、甘いものを食べさせれば泣き止む、と田島はそのような噂を信じていた。いや、本当は信じていなかったが、信じていると思う他、泣き止ましのアイディアがなかった。とにかく、あの邪魔っけなケイ子の兄に、自分とケイ子の関係を悟られてはならぬ。筋骨予想以上と分かったからには、なんとしても静かに離別を終え、ここを無事に出ていかなくてはならない。
「そうですか。」と一言、ケイ子は黙り、泣きもしなかった。饅頭も食べない。しばらくして「画の相談と、兄が申していましたが。」
「いや、それはまた、風邪の方がすっかり良くなってからで構いませんよ。急ぎでもないので。今日は、お見舞いに寄っただけなんですから。」
「そうですか。」
 ケイ子は、キヌ子を田島の本当の妻だと思っているようで、田島夫妻の円滑を壊すまいと、自分はただ田島のところの雑誌に、挿絵を描いている、それだけの人間を演じているようだった。風邪で優れないところ、このように卑怯くさい離別の演技を持ち込まれ、それで、この健気。
 僕は、悪人だ。いや、悪そのもの。せめてお金は、しっかりと、渡さなければならない。そして、きっぱりと、別れる。それがこの人の幸せにも、繋がるのだ。きっと、この人は大丈夫だ。軍人上がりの兄だって、ついている。
「ちょっと失礼。」田島は饅頭を一つ、包みから取り出して、食べた。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」13

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・コールド・ウォー (二)

 こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも饗応せず、思い切り酷使しなければ、損だ。温情は大の禁物、わが身の破滅。
 キヌ子に殴られ、ぎゃっという奇妙な悲鳴を挙げても、田島は、しかし、そのキヌ子の怪力を逆に利用する術を発見した。
 彼のいわゆる愛人たちの中のひとりに、水原ケイ子という、まだ三十前の、あまり上手でない洋画家がいた。田園調布のアパートの二部屋を借りて、一つは居間、一つはアトリエに使っていて、田島は、その水原さんが或る画家の紹介状を持って、「オベリスク」に、さし画でもカットでも何でも描かせてほしいと顔を赤らめ、おどおどしながら申し出たのを可愛く思い、わずかずつ彼女の生計を助けてやる事にしたのである。物腰がやわらかで、無口で、そうして、ひどい泣き虫の女であった。けれども、吠え狂うような、はしたない泣き方などは決してしない。童女のような可憐な泣き方なので、まんざらでない。
 しかし、たった一つ非常な難点があった。彼女には、兄があった。永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者の由で、骨組もなかなか頑丈の大男らしく、彼は、はじめてその話をケイ子から聞かされた時には、実に、いやあな気持がした。どうも、この、恋人の兄の軍曹とか伍長とかいうものは、ファウストの昔から、色男にとって甚だ不吉な存在だという事になっている。
 その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。
 田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、
「自分は、ケイ子の兄でありますが。」
 という、いかにも力のありそうな男の強い声。はたして、いたのだ。
「雑誌社のものですけど、水原先生に、ちょっと、画の相談、……」
 語尾が震えている。
「ダメです。風邪をひいて寝ています。仕事は、当分ダメでしょう。」
 運が悪い。ケイ子を引っぱり出す事は、まず不可能らしい。
 しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。それに、ケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が寄宿しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。兵隊の兄も、まさか殴りやしないだろう。或いは、ケイ子以上に、感激し握手など求めるかも知れない。もし万一、自分に乱暴を働くようだったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。
 まさに百パーセントの利用、活用である。
「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
 彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」12


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・コールド・ウォー (一)

 田島は、しかし、永井キヌ子に投じた資本が、惜しくてならぬ。こんな、割の合わぬ商売をした事が無い。何とかして、彼女を利用し活用し、モトをとらなければ、ウソだ。しかし、あの怪力、あの大食い、あの強慾。
 あたたかになり、さまざまの花が咲きはじめたが、田島ひとりは、頗る憂鬱。あの大失敗の夜から、四、五日経ち、眼鏡も新調し、頬のはれも引いてから、彼は、とにかくキヌ子のアパートに電話をかけた。ひとつ、思想戦に訴えて見ようと考えたのである。
「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」
「女がひとりでいるとね、いろんな事があるわ。気にしてやしません。」
「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎から妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、という事ですね、これは、道徳上、悪い事でしょうか。」
「あなたの言う事、何だか、わけがわからないけど、男のひとは誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。」
「それが、だから、悪い事でしょうか。」
「けっこうな事じゃないの。どうも、よっぽどあなたは、ためたな?」
「お金の事ばかり言ってないで、……道徳のね、つまり、思想上のね、その問題なんですがね、君はどう考えますか?」
「何も考えないわ。あなたの事なんか。」
「それは、まあ、無論そういうものでしょうが、僕はね、これはね、いい事だと思うんです。」
「そんなら、それで、いいじゃないの? 電話を切るわよ。そんな無駄話は、いや。」
「しかし、僕にとっては、本当に死活の大問題なんです。僕は、道徳は、やはり重んじなけりゃならん、と思っているんです。たすけて下さい、僕を、たすけて下さい。僕は、いい事をしたいんです。」
「へんねえ。また酔った振りなんかして、ばかな真似をしようとしているんじゃないでしょうね。あれは、ごめんですよ。」
「からかっちゃいけません。人間には皆、善事を行おうとする本能がある。」
「電話を切ってもいいんでしょう? 他にもう用なんか無いんでしょう? さっきから、おしっこが出たくて、足踏みしているのよ。」
「ちょっと待って下さい、ちょっと。一日、三千円でどうです。」
 思想戦にわかに変じて金の話になった。
「ごちそうが、つくの?」
「いや、そこを、たすけて下さい。僕もこの頃どうも収入が少くてね。」
「一本でなくちゃ、いや。」
「それじゃ、五千円。そうして下さい。これは、道徳の問題ですからね。」
「おしっこが出たいのよ。もう、かんにんして。」
「五千円で、たのみます。」
「ばかねえ、あなたは。」
 くつくつ笑う声が聞える。承知の気配だ。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」11


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・怪力 (四)

「ピアノが聞えるね。」
 彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」
「あの曲は、何?」
ショパン。」
 でたらめ。
「へえ? 私は越後獅子かと思った。」
 音痴同志のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
 急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう駄目かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。どうしても、ねばって成功しなければならぬ。
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
 自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
 鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」
 すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
 キヌ子は立って、ドアを開け放す。
 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。
 グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
 しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」
 色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがとう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」10


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・怪力 (三)

 田島は、ウイスキイを大きいコップで、ぐい、ぐい、と二挙動で飲みほす。きょうこそは、何とかしてキヌ子におごらせてやろうという下心で来たのに、逆にいわゆる「本場もの」のおそろしく高いカラスミを買わされ、しかも、キヌ子は惜しげも無くその一ハラのカラスミを全部、あっと思うまもなくざくざく切ってしまって汚いドンブリに山盛りにして、それに代用味の素をどっさり振りかけ、
「召し上れ。味の素は、サーヴィスよ。気にしなくたっていいわよ。」
 カラスミ、こんなにたくさん、とても食べられるものでない。それにまた、味の素を振りかけるとは滅茶苦茶だ。田島は悲痛な顔つきになる。七枚の紙幣をろうそくの火でもやしたって、これほど痛烈な損失感を覚えないだろう。実に、ムダだ。意味無い。
 山盛りの底のほうの、代用味の素の振りかかっていない一片のカラスミを、田島は、泣きたいような気持で、つまみ上げて食べながら、
「君は、自分でお料理した事ある?」
 と今は、おっかなびっくりで尋ねる。
「やれば出来るわよ。めんどうくさいからしないだけ。」
「お洗濯は?」
「バカにしないでよ。私は、どっちかと言えば、きれいずきなほうだわ。」
「きれいずき?」
 田島はぼう然と、荒涼、悪臭の部屋を見廻す。
「この部屋は、もとから汚くて、手がつけられないのよ。それに私の商売が商売だから、どうしたって、部屋の中がちらかってね。見せましょうか、押入れの中を。」
 立って押入れを、さっとあけて見せる。
 田島は眼をみはる。
 清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくたる香気が発するくらい。タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、可憐に小さい靴が三足、つまりその押入れこそ、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。
 すぐにまた、ぴしゃりと押入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れて居汚く坐り、
「おしゃれなんか、一週間にいちどくらいでたくさん。べつに男に好かれようとも思わないし、ふだん着は、これくらいで、ちょうどいいのよ。」
「でも、そのモンペは、ひどすぎるんじゃないか? 非衛生的だ。」
「なぜ?」
「くさい。」
「上品ぶったって、ダメよ。あなただって、いつも酒くさいじゃないの。いやな、におい。」
「くさい仲、というものさね。」
 酔うにつれて、荒涼たる部屋の有様も、またキヌ子の乞食の如き姿も、あまり気にならなくなり、ひとつこれは、当初のあのプランを実行して見ようかという悪心がむらむら起る。
「ケンカするほど深い仲、ってね。」
 とはまた、下手な口説きよう。しかし、男は、こんな場合、たとい大人物、大学者と言われているほどのひとでも、かくの如きアホーらしい口説き方をして、しかも案外に成功しているものである。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」9


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・怪力 (二)

「あそびに来たのだけどね、」と田島は、むしろ恐怖におそわれ、キヌ子同様の鴉声になり、「でも、また出直して来てもいいんだよ。」
「何か、こんたんがあるんだわ。むだには歩かないひとなんだから。」
「いや、きょうは、本当に、……」
「もっと、さっぱりなさいよ。あなた、少しニヤケ過ぎてよ。」
 それにしても、ひどい部屋だ。
 ここで、あのウイスキイを飲まなければならぬのか。ああ、もっと安いウイスキイを買って来るべきであった。
「ニヤケているんじゃない。キレイというものなんだ。君は、きょうはまた、きたな過ぎるじゃないか。」
 にがり切って言った。
「きょうはね、ちょっと重いものを背負ったから、少し疲れて、いままで昼寝をしていたの。ああ、そう、いいものがある。お部屋へあがったらどう? 割に安いのよ。」
 どうやら商売の話らしい。もうけ口なら、部屋の汚なさなど問題でない。田島は、靴を脱ぎ、畳の比較的無難なところを選んで、外套のままあぐらをかいて坐る。
「あなた、カラスミなんか、好きでしょう? 酒飲みだから。」
「大好物だ。ここにあるのかい? ごちそうになろう。」
「冗談じゃない。お出しなさい。」
 キヌ子は、おくめんも無く、右の手のひらを田島の鼻先に突き出す。
 田島は、うんざりしたように口をゆがめて、
「君のする事なす事を見ていると、まったく、人生がはかなくなるよ。その手は、ひっこめてくれ。カラスミなんて、要らねえや。あれは、馬が食うもんだ。」
「安くしてあげるったら、ばかねえ。おいしいのよ、本場ものだから。じたばたしないで、お出し。」
 からだをゆすって、手のひらを引込めそうも無い。
 不幸にして、田島は、カラスミが実に全く大好物、ウイスキイのさかなに、あれがあると、もう何も要らん。
「少し、もらおうか。」
 田島はいまいましそうに、キヌ子の手のひらに、大きい紙幣を三枚、載せてやる。
「もう四枚。」
 キヌ子は平然という。
 田島はおどろき、
「バカ野郎、いい加減にしろ。」
「ケチねえ、一ハラ気前よく買いなさい。鰹節を半分に切って買うみたい。ケチねえ。」
「よし、一ハラ買う。」
 さすが、ニヤケ男の田島も、ここに到って、しんから怒り、
「そら、一枚、二枚、三枚、四枚。これでいいだろう。手をひっこめろ。君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見たいや。」
「私も見たいわ。そうして、ぶってやりたいわ。捨てりゃ、ネギでも、しおれて枯れる、ってさ。」
「なんだ、身の上話はつまらん。コップを借してくれ。これから、ウイスキイとカラスミだ。うん、ピイナツもある。これは、君にあげる。」