関曠野さんのこと、仏教のこと

 去年の暮れに、仁和寺ベーシック・インカムの講演会がありました。講演者は関曠野さんという方で、僕は関さんのベーシック・インカムに関する講演録を一度見たことがあるけれど、それ以上のことはどういう方なのか何も知らず、まあベーシック・インカムの講演会なので出掛けたというわけです。

 最初、登壇されて話を開始された時、正直なところ「この人大丈夫だろうか…」という不安が頭の中のかなりを占めました。けれど話が進むにつれ、僕は関さんの知性を思い知ることになります。
 この日、もともとベーシック・インカムのことで講演会を訪ねたはずが、印象に残ったのは関さんの存在そのものと、あと関さんが少しだけ話された仏教のことでした。

 実は、去年僕は仏教関連のイベントに一度参加しています。
 イベントといってもそんなに大げさなものではなく、単に僧侶と話すという会なのですが、友達が司会をしていて誘ってくれました。僕が「お坊さんとか嫌いだし、今の寺のあり方とかも嫌いなんだけど」というと、そういう役回りの人間が欲しかったのか「参加費はもう免除でいいから来て、ガンガン攻めて」と言ってくれたので出席させて頂きました。
 詳細は省きますが、その日は色々なことが起こり、嫌いだと言っていた僧侶の人とも友達になり、でも仏教ってこういうことだっけなあ?という感じで話ながら、結局夜まで飲むことになりました。

 仏教ってこういうことだっけなあ?という問いの一部は、この関さんの講演が解いてくれたと思います。
 関さん曰く、「仏教という言葉はそもそもなかった。これは明治に”キリスト教”に対抗して作った言葉だ。もともとは、仏教なんて言わずに、仏道ってみんな言ってたんです」

 お坊さんもお寺も嫌いだ、なんて書きましたが、僕はブッダが言ったことのかなりの部分は好きだし、一休さんとか一部の禅僧のことも好きです。でも、それらはあまり”宗教であり、教えである”という感じがしない。その辺に転がってる、もっとしっとり確かなものに感じます。
 その質感を、教わるではなく行う、仏道という言葉が上手に表現しているような気がする。
 とは言っても、明治より前からおかしなことにはなっていたことはなっていたのではないかと思いますが。

 仏教が扱うものが、「苦」ばかりで、だから仏教というと暗い人みたいなイメージがあるけれど、それも違う、と関さんは言っていました。「苦」以外は放っておいても、別にそのまま味わえばいい、楽しいことは放っておいても楽しいのだから、別に放っておけばいい。でも苦しみはそういうわけにはいかない。ここはどうにかして知力を振り絞って立ち向かわねばならない。だから仏教は苦しみとか死とかそんな暗めの話ばかりになってしまう、ということだった。それは医者が病気の話ばかりしているのに似ている。病気の話ばかりするからと言って、医者がみんな暗いわけでもない。
 なるほど。
 そう、仏教の話を書いているからといって、それは必ずしも僕が暗い人間であることを意味しない、と思いたい。

 「暗い」よりも、「なんか堅苦しい」というイメージが仏教にはついて回ると思う。
 それは「酒も肉もセックスもダメ!」みたいなことが言われるからですよね。「欲はダメ、煩悩ダメ」

 僕はブッダという人に勝手な幻想を抱いていて、アバンギャルドな天才だったのではと思い込んでいました。だから「ブッダが禁欲とか詰まんないこというわけないじゃん、あれは全部ヒンドゥー教とか儒教とかがヘンテコリンに絡まったからで、もともとブッダはそんなこと絶対言ってない」と、仏教書の中で最も古いらしいスッタニパータを読んでみると、これも本当にブッダが言ったのかどうか分からないけれど、禁欲的なことが書かれていました。

 古い経典に書かれているのであれば、嘘か真かは、本当の本当のところは分からなくても、ブッダが禁欲的なことを言ったと仮定する方が自然なので、僕は「ブッダは禁欲的なことを言った」というのを採用することにしました。ややがっかりしつつ。

 ここで、ちょっと話がそれますが、現代の仏教寺院どころか、かなり古いお寺に行っても、当たり前のように「仏像」が置かれていますが、これって不思議じゃないですか?
 仏教が、ブッダの生老病死に挫けてしまわない思想の賜物だとしたら、彼が一体いつどこで「阿弥陀如来様が」とか言ったというのだろう。むろんブッダはそんなこと一言も言っていないはずです。仏像を拝むのは仏教というより、仏教という思想に乗っかって日本までやって来たヒンドゥー教の神々を拝んでいるのに近いのだと思います。日本人はヒンドゥー教徒なのかもしれません、どちらかというと。

 閑話休題
 がっかりしながら、僕はどうしてブッダが禁欲なんて詰まらないことを説いていたのだろうかと、結構長い間考えていました。
 彼が、ただの詰まんない変な人だった、というのはまだ採用せずに、アバンギャルドな天才思想家、という肩書は被せたままにして、そんな如何にも自由な思想の持ち主が、どうして禁欲を説いたのか。

 僕が導き出した答えは、「欲望なんて満たさなくても大丈夫!元気出して!」という、「解除」でした。
 そのことは実は一度このブログにも書いたと思うのですが、次回改めて書きたいと思います。

民族とは何か (講談社現代新書)
関曠野
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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
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