書評:『独立国家のつくりかた』坂口恭平

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口恭平
講談社

 坂口恭平さんの新政府に”納税”が行われているのを見ていて、僕もなけなしのお金の中から僅かな納税をすることにしました。
 「えっ!」という感じです。自分でそう思います。

 何が「えっ!」なのかというと、恥ずかしい話で、実は僕は坂口さんには嫉妬していたからです。
 できれば、ああいうことは自分でしたかった。
 311の後、原発が爆発して、なんだかんだある程度持っていた「最低限のところでは政府もちゃんとしてるだろう」という幻想が完膚なきまでに破壊されました。
 すっかりイヤになった僕は、どこかに移住して新しい国家を作るのは難しいけれど、物理的には今住んでいるこの日本の中で、システムとしては新しい別の国家を作ることができないかという話を友達とよくしていました。
 でも、結局は自分で自分の言っていることを信じていなかったのだと思います。
 それに、そういう社会的なことをするよりも、自分はやっぱり物理学に集中して生きて行きたいと思っていて、結局は何もしませんでした。

 しかし、結局は大学院も辞めてしまい、イライラしながら日々が過ぎるうちに、実家かどこかで目にした新聞記事で坂口恭平さんのことを読みます。
 坂口さんは「現政府がダメなら自分の新政府で」と、熊本に作った新政府で実際に被災者の人達を無料で受け入れていました。
 動いている人は本当に動いているのだという嬉しさと、自分にはできなかった悔しさみたいなものが同時に湧いて来ました。そして僕はやっぱり悔しくて坂口恭平という名前に蓋をしてしまったのです。
 バカみたい、というか本当にバカな話ですが、僕にはそういう幼稚なところがあるのを認めざるを得ません。

 蓋をしたその名前に、僕は今度は本屋で遭遇することになります。
 『独立国家のつくりかた』です。
 パラっと捲ったら「あーそうそうそう!」です。
 もう悔しいとかなんとか言ってる場合ではないなと、すぐに買いました。

 冒頭にまず坂口さんが疑問に思っていることが書かれています。

 1)なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか。そして、それは本当なのか。
 2)毎月家賃を払っているが、なぜ大地にではなく、大家さんに払うのか。
 3)車のバッテリーでほとんどの電化製品が動くのに、なぜ原発をつくるまで大量な電気が必要なのか。
 4)土地基本法には投機目的で土地を取引するなと書いてあるのに、なぜ不動産屋は摘発されないのか。
 5)僕たちがお金と呼んでいるものは日本銀行が発行している債権なのに、なぜ人間は日本銀行券をもらうと涙を流してまで喜んでしまうのか。
 6)庭にビワやミカンの木があるのに、なぜ人間はお金がないと死ぬと勝手に思い込んでいるのか。
 7)日本国が生存権を守っているとしたら路上生活者がゼロのはずだが、なぜこんなにも野宿者が多く、さらに小さな小屋を建てる権利さえ剥奪されているのか。
 8)2008年時点で日本の空家率は13.1%、野村総合研究所の予測では2040年にはそれが43%に達するというのに、なぜ今も家が次々と建てられているのか。

 これは結構たくさんの人が「そうそうそう!」ではないでしょうか。
 実際にこの『独立国家のつくりかた』はとても良く売れています。

 これを読んだのは去年の春の終わりか初夏の頃で、僕は当時「土間の家」というところに住んでいたので、その本はここで一緒に暮らしていた友達に上げてきました。
 だから、今、本は手元にありません。
「えっ、一年前の話なの? 最近読んだ本の感想じゃないの?」と思われるかもしれないのですが、そうです一年近く前のことを書いています。
 また悔しくてずっと書けなかったんです。
 本当に恥ずかしい話ですが。

 「もう、こういうことは坂口総理に任せよう」と素直に思うようになったのは最近のことです。
 しばらく前にyoutubeではじめて動いている坂口さんを見ました。
 宮台真司さんとの対談だったのですが、あの宮台さんが圧倒されて黙っていて、最後に「人と話してこういう感覚になったのははじめてだ」と言っています。
 僕も圧倒されました。ああいう器の大きさやパフォーマンスの高さは僕にはありません。

 そして更に今回の”納税”です。
 納税したいと思った自分にとても吃驚しています。
 僕は坂口さんのことを認めて応援しようと思っているのだなと、思いがけない形で、お金という非常に明確な形で知ることになりました。

 ちなみに『独立国家のつくりかた』について高橋源一郎さんが以下のコメントを書いています。

《坂口さんはオカシいのだろうか。でも、いまから150年ほど前、たくさんの若者が新しい国を勝手に作ろうとしたじゃないか。坂本龍馬とか。そして彼らが出ているテレビを見て、みんな喝采を送っているじゃないか。龍馬ってオカシいの?》

 今回、坂口恭平さんのことを書いているのは、僕のツイッターが新政府”納税”だらけになったからだけではなく、昨日高知市で坂口さんのことを思い出したからです。

 この土日、僕は一緒に住んでいるみんなで京都から高知まで出掛けて海沿いでキャンプをして来ました。車にキャンプ道具を詰め込んでの無計画な旅で、結果的には室戸のジオパークを回ったり、空海が修行した洞窟へ参ったり(ちなみに空海は僕の子供の頃のヒーローの一人です)、廃墟として残されている戦闘機格納庫を見物したり、たまたまやっていた大おきゃくというお祭りを見たり、ひろめ市場でご飯を食べたり、沢田マンションを訪ねたりすることになりました。

 高知市の大おきゃくでは、ステージでよさこいのようなものが踊られていました。
 よさこい祭りではないので、規模はずっと小さなものですが、僕は感動してしまったのです。
 都市の中心地の公園で大音量が出されていること、例のはりまや橋でなんとかという音楽、ステージ衣装で街をウロウロしている人々、その南国の空気感。

 もしかしたら、本当は日本は「こっち」なんじゃないかと思いました。
 この時僕は、九州の坂口さんと、あとツイッターに彼が載せていた古い祭りの曳山の写真を思い出していました。
 本当の日本なんて言い方は良くないの分かっているつもりですし、たとえば北海道は南国ではありません。
 ただ、僕達はなんというかエコノミックアニマル的な「こういうつまんない感じ」ではなかったのではないかと思うのです。やっぱり明治以降の日本はヘンテコ過ぎて、色々忘れすぎているんじゃないかなと思うのです。

 もっと言いますけれど。
 「京都って日本ですか?」
 僕はもうずっと京都に住んでいます。
 京都というのは、ザ・ジャパンみたいな捉えられ方をしていますが、本当にそうでしょうか?

 たかだか1200年前に中国の真似事して作った都市と文化のことですよね。
 お寺が有名ですが、仏教ってインドのものが中国経由で入ってきただけですね。
 キモノのこと呉服って言いますけれど、呉服って、呉の服ですよね。中国の服。

 1200年というのは、もちろん長いです。
 歴史だといえば歴史です。
 厳密な意味でオリジンなんてどこにもないかもしれませんし、オリジンがどうしたって話です。
 ただ、やっぱり僕達は変な自分達の出自に縛られてアイデンティティを構成して生きているような感じがしてしまいます。ちょっと息苦しい感じが。

 明治維新以降の「富国強兵、国民は勤勉なマシン」みたいなのは論外として、それを越えてもまだ平安時代というなんか怪しいものがあるんです。そのイミテーションを日本人的な心の拠り所にすると、やっぱりまずいんじゃないかなという気がします。
独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口恭平
講談社