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awe

 僕は数年前の一時期ベジタリアンでした。
 元々そんなに肉を食べる方ではなかったけれど、その数ヶ月くらいの間は已むを得ない場合以外、いっさい肉は口にしなかった。理由はいくつかありましたが、一番の大きな理由は殺される動物達の映像を見たことではないかと思います。きっと。屠殺の様子や、ブロイラーの鶏が"チキン"になる過程を見て、「僕にはこれはできないし、加担もできない」と思ったのです。

 肉を食べないと人は生きることができない、というのであれば、話は別だったかもしれません。でも、他にも乳製品、卵、魚介類などの動物性タンパク源はたくさんあるので、それなら肉はもういい、と思ったのです。
 魚は自分で釣って殺して食べたことがあって、それもかわいそうなことではあったけれど、そこには悲しみよりも大きな喜びがあり、僕にも可能なことだったので平気で食べ続けていました。

 かつてベジタリアンであった、ということは、今はそうではない、ということですが、どうして肉食を再開したのか、という理由を説明するのは困難です。
 ただ飽きたのだろうとか、ウンザリしたのだろうとか、周囲の人達は概ねそう思っていると思う。そう言われても特に反論はありません。だいたいそんな所です。
 けれど、一つだけ付け加えるなら、殺して食べる、ということの意味合いが自分の中で変化したからでもあるわけです。

 原子力発電所が爆発して放射能が漏れ出してから、各地で原発反対の声が上がっています。
 こんなにたくさん原子力発電の問題点が、工学的なものだけではなく、政治的なものなども含めて表層に出てきたからには、原子力発電は終焉に向かうだろうなと漠然と思います。
 原子力依存をやめて、もちろん化石燃料もやめて、僕達はいよいよ自然エネルギーの時代を迎えようとしているのだと。

 そして、僕はあることに気が付きました。
 いざ作るとなると、自然エネルギーだってそれほど素晴らしいものには見えないということに。
 たとえば、風力発電では鳥がぶつかって死んでしまう等の問題点が昔から報告されていましたが、僕がここでしようと思っているのはそういう話でもないんです。そういった現実的な、科学的な、根拠と合理性に裏打ちされた話ではなく、もうほとんど宗教的な、あるいは感情的なことを少しだけ書いてみたいと思っています。

 僕はこれまでに何度か風力発電の風車を見たことがあります。少なくとも3度、三重県滋賀県鳥取県で見ました。白くて大きな風車は、遠目にはクリーンでエコで素敵なものに見えなくもないのですが、実際に間近で見ると大きな風車は少し怖い気がしました。
 僕は小さな頃、高圧送電線の鉄塔が怖くて泣いたこともあるので、そういった特別に臆病な感性の持ち主だと言われても仕方がないのですが、とにかく実際に近くで風車を見るのは、僕にとってあまり気持ちの良いものではありませんでした。そして、こういうものを何百個とか何千個とか、とある地域に建てることは、なんだか自然に対してひどいことのような気がするなと思った。洋上風力発電にしても、海底に杭を打ち込んだり、大きなフロートを浮かべたり、僕はその近くに船で行ったら、きっと海に対して申し訳ない気持ちになるように思います。

 太陽光発電に関しても、同じような思いがあります。
 たしかに、日光を直接電気に変換する太陽光発電は素敵です。でも、僕達がそれを素敵だと言えるのは、たぶん既に自然を切り開いて作った街や道路という「面積」が沢山あるからです。もしも、世界に街だとか既に人が切り開いた土地なんて全然なくて、太陽電池を敷くために森を切り開かなければならないとしたら、あるいは樹々の頭上をパネルで覆わなければならないとしたら、それはそれでまたひどいことになってしまいます。

 結局のところ、人が電気を使って生きるというのはそういうことなのかもしれません。
 原子力でなくても、化石燃料でも自然エネルギーでも、なんだって僕達はこの星のどこかを多少なりとも壊さないことには電気を得ることができない。
 僕はそれにはずっと目を瞑ってきたのだと思います。ちょうど、人々が自分ではかわいそうで到底牛も豚も殺せないのに、殺すのは屠場の人達に任せて自分達はパックされた肉を買うように。

 発電だけじゃない。
 考えて見れば、僕は自分の手で森を開き街を作ることもできないかもしれません。

 大阪の十三から、淀川を架かる十三大橋を渡り梅田のメガロポリスへ入って行く時、特にそれが夜であれば、河の向こうにそびえる高層ビル群のシルエットと街の明かりは独特の感慨を僕達にもたらします。人が創り上げた巨大な街。莫大なエネルギーが注ぎ込まれ、止めどなく変化し続ける人とコンクリートと鉄の複合体。霞んだ空気の中、ビルの縁で一際強く光る真っ赤な航空障害灯が、生物を連想させる有機的なランダムさで明滅を繰り返す。橋を並行する阪急電車は、河面に車内の白い蛍光を落としながら、轟音を立てて水の上を走り僕達を追い抜いて行く。

 この景色を、僕は美しいと思う。
 徹底的に自然を押し殺し、全ての大地をアスファルトで覆い、大気を汚すこの景色を、僕は美しいと思う。それは造形としての美しさを超えたものだ。人類のテクノロジーだとか働きっぷりに対する敬意と畏怖。

 ただ、ここも昔は自然の草原だか森だか何かだった。

 何百年何千年の過去を遡り、そこに広がる草木を見たとき、もしも僕がスーパーサイヤ人みたいな体力とグーグルを遙かに凌駕する知識とミケランジェロのような手先の器用さを備えていたとして、果たして街作りを始めることができただろうか。
 正直なところ、僕は牛や豚を殺せないどころではなく、樹の一本も切れやしないような気がするのです。僕には森や草原を壊して造成して街を作ることはできない。

 もっとも、「なんて軟弱な」と言われてばそれまでだけど。
 映画「もののけ姫」で宮崎駿が描いたタタラ製鉄の村のように、僕達は自然と対立するような形で生きるのが”好き”なのかもしれない。そういう性なのかもしれない。獣を殺して喰らい、樹を切り倒して家を建てるのが人類の営みなのかもしれない。

 それでも、僕には「自分で手を下せ」と言われたら、それはできない。
 樹を切り倒し森を拓くこともできない。
 草原をアスファルトで覆い、地面のその部分がもう空気にも日光にも触れないようにするなんてできない。
 僕は建築も好きだし、そもそも科学が好きだし、テクノロジーが好きだし、都会も好きだし、人の作ったものが本当にとても大好きだけど、でも自分でその最初の「自然を殺す」ところをしなきゃならないなら、全部諦めるかもしれないと思う。
 そこから新しい方向へ発達する科学というのものを、僕達はまだ知らない。コンクリートの都市ではなく、魔法の灯りで夜なお賑やかな森の暮らしを僕達はまだ知らない。

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)
イースト・プレス


冒険図鑑―野外で生活するために (Do!図鑑シリーズ)
福音館書店