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無という神という無

 大山へ遊びに行った夜。半分くらいが眠って、半分くらいがまだ起きていて。僕たちは明かりを落としたダイニングで話をしていた。
 話はいつの間にか宗教のことになり、友人が「仏教のことを哲学的だとか自由だとか褒めて、キリスト教などの一神教をガチガチの宗教みたいに言いがちだけど、実際のところは仏教一神教と同じ構造だ」というようなことを言った。

 彼の言によれば、仏教は、「無」を頂点においた一神教だと見なすことができる、神の代わりに「無」を持ってきただけの話だ、ということだ。

 なるほどなあ、と僕は思った。
 それまで、実は全然そんなこと思いも寄らなかった。

 しばらくの間、でも、「無」は定義されきっていない、というか、「無」は「有」との重ね合わせ状態としての”無”だから、とか色々反論を考えてみたけれど、そういった反論になりそうなものは全部キリスト教などの一神教でも同じだった。
 僕たちは「無」を定義しきれないし、同様に「神」も定義しきれない。神学論争は延々と続いている。

 「何か」を頂点においているけれど、その「何か」が何なのかを知らないまま宗教は進んでいく。「なんか良くわかんないんだけど、とりあえず」ということで歩き続けている。「足下を見よ」とか「隣人を愛せ」とか日常の訓話を散りばめて、ときどき「何か」とは何かを真剣に考えてみたり。
 そう思うと、宗教って実にプラクティカルだ。

 ただ、「何か」について「完全に分かっている。こうだ!」っていう人が現れた時、たまにおかしなことが起こる。
 だから、やっぱり「宗教」というあり方にはいくらかのリスクが伴うとも思う。それは自分の頭で考えない人の集団は怖いという、別に宗教に限った話ではないけれど。

 今回はテーマが大きいせいもあるかもしれないけれど、やっぱりなんだか上手く書けない。一つの文章を書くと直後にそれに対する反論を自分で書きそうになる。さらにその直後に両者を否定することを。
 つまり「A」と書いた直後に「Aじゃない」と書いて、その後に「AとかAじゃないとかそういう枠組みで考えること自体が間違っている」と書きたくなり、さらにその後に「”AかAでないかという枠組みで考える”と”AかAでないかという枠組みで考えない”という枠組みで考えることが変」、と以下同様に話が延々と内側にしか進まない、という現象にすぐ囚われる。

 これは別に悪いことではないと思う。
 ただ、作文としては「すっきりと明快な論理が通っている」方が読みやすいし、読んだ人もすっきりして気持ちが良いと思う。
 だから、それを目指したいな、と思ったり、同時に、それが「危ない思考停止の宗教」と同型だなとか、すっかり寒くなった朝にすぐに冷めてしまうお茶を飲みながら思う。

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