inside, outside.

 その昔「真理はどこにあるのか?」と山伏に聞かれた一休禅師は「ここ、胸の中」とあっさり答えた。そんなことは分かってるというか、そんなのは答えになってないというか、兎に角その答えに納得のいかない山伏は短刀を取り出して、「そうか、じゃあその胸切り開いて真理を見せてもらおう」と詰め寄った。これは僕の全く勝手な想像に過ぎないけれど、きっと真面目に真理を探し求めていた山伏は、相当にリベラルで変人だったらしい一休に対して、一種嫉妬の混じった憤りを覚えたのだろう。

 一休はここで空かさず、

『年毎に 咲くや吉野の 桜花
 樹を割りて見よ 花の在りかを』

 と歌を詠んだ。流石だ。
 山伏はこれで一発ノックアウトされて、そのあと一休の弟子になったという。
 真理が胸の中にあること、そんなことは分かってる。そう、分かってるのだ。いつでも既に。

 僕達は現代の科学を駆使して、ナイフで開くような大雑把な開き方じゃなくて、電子顕微鏡もゲノムの解読もなんでもやって、樹を開いて花の在りかを知ることができる。今は。もちろん、それは今の科学が昔の科学よりは科学という意味合いにおいて進んでいるということに過ぎないから、一休が言わんとしたことはそのまま今も同じだ。分子も原子も電子も、別に真理ではなく何かの影に過ぎない。

 分かっているのに、それを説明する言葉すら持たず、それどころか言葉は永久にそれを説明しないし、説明は永久に説明にならず、説明と理解という概念においてそれらが既にベクトルを外しているということを知っているとき、僕達はただ行動するしかない。