tannoy.

 知恩院のミッドナイト念仏へ、僕はほとんど建物の内部を見たいが為に行ったので、そんなに真剣に念仏を唱えたりはしなかった。木魚はみんなこぞって叩いていたけれど、念仏を口にする人はほとんどいなくて、どちらかといえば寂しい行事だったんじゃないかと思う。参加者は必ず大きな声で念仏を唱えることを徹底すれば、それはそれでもっと神秘的な空間になったのかもしれない。

 僕は、このミッドナイト念仏の紹介みたいなのをブログに書いたとき、「どんなにデコレーションを凝らしたクラブよりも非日常的な空間になるのではないか」ということを書いたけれど、そういうことはなかった。逆にテクノロジーというのがいかに強力なものかを思い知った。あくまでクラブ的なノリを持ち込むならの話ですけれど。大きかろうが数が多かろうが木魚よりも、念仏よりも、仏像よりも、ロウソクよりも、ウーハーとかテクノとかハウスとかレーザーとかミラーボールとかプロジェクターの方がずっと良くできているなと思う。僕達は確実に昔よりも未来にいる。

 ある宗教的な行いに対しての、「トランスする」ということを中心に置いた視点は、今日では比較的多くの人が持っているのではないかと思う。特にそこにリズムや読経、長時間にわたる繰り返しが含まれる場合。かなり多くの人が、「あれは昔の人のトランスするための装置だ」というようなことを言うと思う。

 だけど、そういう認識は本来的に正しいものなのかどうかをあまり多くの人が吟味しているように思えない。なぜなら、読経とかはトランスするためのものだ、という解釈はなんかやけに腑に落ちて分かり易いからだ。でも当然分かりやすいことが正しいという保障はどこにもない。