リモートコントロール。

 僕はニュースにとても疎いのですが、最近久しぶりにライブドアの名前を耳にしました。『金持ち父さん、貧乏父さん』というタイトルだったと思いますが、ロバート・キヨサキさんという日系アメリカ人の方が書いた本が何年か前に発売されて、日本には軽い株式投資ブームがあって、それがライブドア事件と共に終わったような気がします。株式投資じゃないか、こういうのは投機ですね。

 ロバートさんの本は僕も読んでいて(確かブログにも何か書いたような気がします)、とても面白い本だったし、結構社会の見方も変りました。「お金の為に働くのではなく、お金を自分の為に働かせよう」と謳って、つまりは株式や不動産に投資してそこから得る利益で生活しましょう、ということを彼は基本的には言っています。たとえば、今手元に200万円あるならば、それで200万円の車を買うのではなく、200万円は投資して、そこから得る利益でやがて車を買えば良い、というようなことが書かれています。200万円あるから200万円使う、ではいつまでもお金は貯まりませんよ、とまあ当たり前のことです。

 ただ、この本の主張はある意味では非常に高飛車なものだと僕は思う。それから、先に言っておくと投資なんてそうそううまく行くものではない。経済というのは魔法のようにお金を増やすシステムではないのだ。一定量を世界中の資本主義に従う人々で取り合うゼロサムゲーム

 「お金の為に働くのではなく、お金を自分の為に働かせよう」

 というのは、人々に投資(あるいは投機)を促すとても上手なコピーだと思うけれど、これはあくまでもコピーであって真実ではない。

 村上龍さんも『希望の国のエクソザス』だとか、かなり経済に突っ込んだ作品をいくつか書いてらして、経済に関する著作も結構あって、その中にも「株に投資することと賭け事は全然違う、投資したお金は働いているのだ」ということが書かれている。

 「お金が働く」という表現を僕は比喩表現としてではなく、現実として理解することができる。
 たとえば、悪者扱いされることも多い銀行という存在は、それ抜きにしてこの日本が成立するものではないし、もともと「みんなが箪笥に千円持っていても何もできないけれど、それを預金してもらって、つまり銀行という一所に集めてやれば、それを資金として事業ができるのではないか。大掛かりな工事もできるのではないか。みんなの力を合わせましょう」というのがはじまりで、とてもクレバーなものです。この銀行に集まったお金が”働く”というのはとてもしっくり来る表現だ。

 でも、当たり前だけど、お金は働かない。
 働くのは人間だ。
 経済的にお金が働くということは言えるけれど、別にお金が荷物を運んだりビルを建てたり野菜を収穫するわけではない。そういうことは誰か生身の人間がするのだ。お金を貰う為に(ちょっと今は生きがいとか労働の喜びみたいなことはのけておきます)。
 だから、僕はさっきのコピーをこう書き換えた方がいいと思う。

 「お金の為に働くのではなく、人々を自分の為に働かせよう」

 こっちの方がずっと真実に近い。
 資本主義というのはそういうことです。常識的に見てどう考えてもひどい儲け方をしているのに「資本主義社会のルールにちゃんと従ってるから」というエクスキューズをする人を僕はとても嫌いだと思う。それは殺人が犯罪に指定されていない国で「法律は破ってないもんね」なんてへらへら言いながら暮らしてる人殺しみたいなものだ。

 へんてこな宗教のいけないところは「聞く耳持たず」なところだ。なにかの教義があって、それが絶対で、それに従うことが最優先される。そうすると、他の人とまともにコミュニケーションがとれない。なにを言っても聞いてもらえない。教義を作ってそれに従うというのは「厳しい」ことではなくて、とても「楽」なことだ。何かを考えたり悩んだりする必要がない。僕たちは生きて行く中で「右へ行くべきか左へ行くべきか」重大な判断を迫られることが多々ある。でも「右へ行きます教」の信者なら話は早い、迷うまでもなく「じゃあ、私は右へ行くので」と、他の人々が頭を抱えて悩む隣りをさっと通り抜けることができる。もしも右がとても危険なルートだったとして、誰かそれを知っている人が警告しても、彼はそれを聞きいれない「いえいえ、私達は右へ行けば、それで幸福になるんです」。

 経済というのは僕たちがより良く生きる為の道具だけど、「資本主義に則っている」と言い過ぎる人は資本主義を教義に仕立て上げて自分は思考停止したへんてこな人々だ。この世界は果てしなく複雑で、僕たちにはたぶん理解不可能で、だからいつの世も僕たちはどこかに思考の最外殻を作ってその中に安住しようとする。外のことを考えるときりがないから、「ここで終わり」という思考の果てを勝手に作って、その外を見て見ぬ振りをする。その思考の果てが、ある時は仏教キリスト教イスラム教やギリシャ神話や資本主義で、でも、見て見ぬふりをする為には僕たちは「何から」目を逸らすのか「どちらを」見てはいけないのかを「知って」おかなくてはならない。「知りたくないもの」「知ってはならないもの」を「知らない」ままでいる為には、何を知ってはいけないのか、何を知ると面倒なことになるのか、を「知って」おかなくてはならない。だから全部知らない振りなのだ。知らない振りならお手のもの。