ラジオフロック・スイミング。

 Mは「オーラの泉」というテレビ番組に出ている、江原なんとかさんという人に傾倒しているらしい。

「江原さんって、その人のオーラとか前世が見えるんだよ。守護霊の声も聞こえるの。すごいんだよ」

「えっ。そう、それはすごいね」

 僕は話がいきなり「前世とオーラと守護霊の存在は前提条件」として始まったので、すこし驚いてしまった。

「それでね。今世で会う人にはすでに前世でもどこかで一度会ってるんだって。だから、私達も前世で昔会ったことがあるんだよ」

「ふーん、それは驚きだ。今の人生で会う人には前世でも既に会ってるのかあ」

「そうらしいよ」

「じゃあ、前世で会ったということは、その前の前世でも会ってることになるよね」

「うん」

「じゃあ、その前の前の前世でも会ってることになるよね」

「うん」

「じゃあ、その前の前の前の前世でも会ってることになるし、その前の前の前の前の前世でも、前の前の前の前の前の前世でも会ってることになるし、無限に時間を溯れることにならない? いつ初めて出会ったのさ。おかしくない? それ」

「また、すぐにそういうこと言うんだから。一番最初はみんな一塊で一つだったのよ」

「そうなんだ。じゃあ、もう誰と会うも何も、最初から全員会ってるんだから、今目の前にいる人は前世でも会った人です、とか、いちいち言うことないじゃん。そんなの当たり前でしょ」

「えー。もういい」

 「オーラの泉」というテレビ番組を見てみると、江原さんという人はどうみても詐欺師の口調と表情で話す人にしか見えないし、国文太一や三輪明宏、それにゲストを加えた4人の人間が普通に「オーラ。前世。守護霊」という言葉を使って話している光景は異常だった。

 ただ、僕はこの江原氏の”セラピー”は一部の人間には効果的だと思う。彼は”スピリチュアル・カウンセラー”というヘンテコな肩書きで、ゲストにセラピーを施すのですが、「その人の抱えている問題」を「オーラ。前世。守護霊」の次元に持って行って、そこで何らかの操作を施して「その人の抱える問題」を解く、というのはセラピーを受ける人間にとっては「私の知らないより高いレベルで江原さんが問題を解いてくれた。だからもう大丈夫」という安心感を得ることである。
 この「私の知らない」というのがポイントで、セラピーを受ける人間にはセラピーの方法自体は「今のところ理解不可能だ」、つまり、「分からなくても一向に構わない」、ひいては「江原さんに丸投げしておけばそれで良い」という非常に楽な展開になっている。これは医者に全幅の信頼を寄せて情報の開示を要求しない、あるいはシャーマンの祈祷で病を治すという立場と同じである。全部「自分よりも沢山の何かを知っている人に任せる」ということに過ぎない。このとき、医者、シャーマン、そして江原氏は別に何にもしなくても「治しました」と宣言さえすればそれで「治癒」は行われたことになる。

 僕はこのテレビ番組を見ていて、先日本屋で立ち読みした「UFOとポストモダン」という奇妙なタイトルの本のことを思い出した。
 「UFOとポストモダン」という書籍は、何もUFOについてその存在の真偽を追求したり、各UFO現象の分析を行ったものではなく、主にアメリカ合衆国という場所で発生した「UFOという社会現象」は一体何だったのか、ということをポストモダンという時代に合わせて読み解くものです。
 たとえば、宇宙人の姿は最初「美しい白人の成人」として描かれていました。それが時代とともに、のっぺりとした頭でっかちの「人間の赤ん坊」形体→映画「エイリアン」に代表される「甲殻類」→「細菌」とモデルがどんどんと退化して行くのですが、それは一体何故なのか、ということをこの本は冷戦やなんかを使って解説しようとしていました。詳しくは読んでいないので分かりませんが。

 UFOというのは「超高度な科学」のシンボルであり、それは神に代わる「超越者」のシンボルです。人間はときどき「超越者」に自分達の人生を委ねて楽をしようとします。自分の頭で判断するにはそれなりの労力が必要ですが「宇宙人がこうしなさいと言った」「神がこうしなさいと言った」という理由で右か左かを決めるのはとても楽なことです。
 さらに、「超越者の思考を私は絶対に理解することができない。なぜならば超越者は私の思考を遥かに超越しているから」という理由で、「私」は思考停止を許されます。「神様のいうことなんだから、なんか変な気がしても、そんなの気にしないで言われた通りにすれば良い」、ということで簡単に人だって殺せるわけです。

 もちろん、こういう風に「自分を思考停止にして超越者の神託を覗う」ことによってのみ達成される事も、この世界には存在しています。たとえば武道などで、「意味の分からない稽古を延々とやらされる」ということがありますが、その意味は「稽古を意味も分からずにやり終える」ということによってのみ理解されるものです。「こんな練習が何になるんだ。納得の行かない練習はしない」といってそこで訓練を放棄してしまうと、その人は次の段階に進むことができないし、練習の意味を永久に理解することもありません。

 ただし、ここで「意味の分からない稽古を延々と続ける」為には師に対する絶大な信頼が必要です。実は僕は「こんな練習が一体何になるんだ」といっていくつかの道場を辞めた口ですが、僕が理解、信頼できなかったのは「練習方法」ではなくて「師」だった、という訳です。
 僕たちは、一度「超越者(師)」を信頼してしまえば、ある程度「思考停止」状態になることができます。そのとき、無論「超越者」は「私」を超越したものです。しかし、その前段階で「私」は、”果してこの「超越者」を信頼しても良いのか”という査定を行います。これは言うまでもなく無謀な査定です。なぜなら、「超越されている者」が「超越している者」の査定を行うなんて不可能な話だからです。でも、その無茶苦茶な査定を行わないことには僕たちは前へ進むことができない。そこで、なんとか「超越者」を査定する方法を考える。

 この「超越者」を査定する方法で、もっともポピュラーなものは「評判を聞く」です。
 たとえば、新しい地域に引っ越して来た人間が医者に掛るとき、「この辺りで評判の良い医者はどこか?」という問いを近隣の人々に投げかけます。医者という医学的知見における「超越者」の査定が「評判」をベースにして成される訳です。
 ここで、僕たちは今査定の拠り所とした「評判」というものが、本当に信頼できるものなのか、という疑問にぶつかります。「評判」とうものは言ってみれば所詮「近所の普通の人」の評価を練り合わせたものでしかありません。「超越されている者」の意見を集めたに過ぎないのです。
 しかし、ここには確固たる信頼感があります。それは集められた意見が「あの医者は沢山の患者を診察して、その結果高い治癒率を誇っている。あるいは誤診が少ない」ということを意味するからです。つまり、医者というブラックボックスの出力に関する情報だけはここにふんだんとあるわけです。

 これは、

 入力=患者  ブラックボックス=医者  出力=治癒状態

 という多数回の試行を集めたものですが、得体の知れないブラックボックスの中身を知ろうとするとき、僕たちは往々にして「何かを入力して、その出力を観測する」というスタンスを取ります。
 どう組まれているのかいまいち良く分からない電気回路にインパルスを入力して、その出力を測ったり、意識を持っているのかいないのか分からないコンピュータに「語り掛け」を入力して、「反応」を聞く、というようにです。

_________________________

 とても中途半端ですが、長くなり過ぎるのと、そろそろ出掛ける仕度をしなくてはならないので、続きは次回に回させて頂きます。どうもすみません。
広告を非表示にする