ローラが家にやってきた。

 電車に乗っていると、僕の前の席にとても小さな子供を一人連れた家族が座って、そして何やら英語の練習を始めた。その子はまだ本当に小さくて、日本語の「赤」「黄色」「青」なんかをきちんと知っているのかどうかも分からないような年齢に見えたけれど、でも父親にホワットカラーイズデス(実際ひどい発音だった)と聞かれて、ちゃんと「イエロー」とか「レッド」と答えていた。

 そうしたやりとりを見ていて、僕はかつてロラン・バルトの言ったラングとスティル、エクリチュールのことを思い出した。

 ラングというのは所謂「言語」のことで、僕ら日本人にとっては「日本語」というものがラングに当たります。
 スティルというのは「文体」のことで、いうなれば僕らそれぞれの書き方や話し方の好みのことです。同じことであっても、異なった人が書くと違った文章表現になります。

 つまり、ラングというのはその人の言語表現を外側から規定するものであり、スティルというのは内側から規定するものです。

 エクリチュールというのは、これもスティルに似ていて「文体」なのですが、でもその人自体が選ぶものでスティルとは異なります。
 たとえば、自分のことを「僕」と呼ぶのを止めて「俺」ということにする。セールストークの口調。先生の口調。ヤクザの口調。そういったものです。
 そして、僕らは自分の使うエクリチュールをその都度、自分自身で選択することが可能ですが、同時にエクリチュールによって自分自身が変化するということも忘れてはなりません。言葉使いを変えると自分の思考形態や正確が変わるというのは比較的実感し易いことだと思います。例えば、今日から自分のことを「ワタクシ」ということに決めると生活が変わってしまいそうな気がすると思います。

 この時、僕は考えずにはいられない。

 「では、果して”日本語を話しているときの自分”と”英語を話しているときの自分”は同一であるか?」

 これはラングの問題であるが、しかしエクリチュールに関する考察から導かれる至って自然な疑問だと思う。

 

 

 
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