身体というイメージ

 奇しくも昨日と同じような構成だ。
 クラブに始まって、整体の話に続く。

 僕はメトロの狭いチルスペースにいて、京大で認知科学の研究をしているという名前も知らない人と話していた。彼の研究テーマは人が行動するときに必ずする「予測」についてだった。予測というのは、こういうことをするとこういうことになる、という将来の見通しのことではなく、もっと瞬間的に僕達が行っている予測のことです。たとえば机のコップを取るとき、脳の中では記憶からコップの重さを出してきて、手をこういう速度でこういう方向からこういう力で動かす、というようなことを計算している。この瞬間的な計算なしには僕達はコップ一つ満足に持ち上げられない。

 これに関しては面白い実験があります。
 金属の板を入れて普通のものよりも幾分重くしたポケットティッシュを街頭で配ると、見事にみんな受け取ることができないでティッシュを落としてしまう。何も金属板がとても思いわけではなくて、単に普通のティッシュよりも数倍重たいポケットティッシュになっているだけだ。片手で受け取るに十分軽い。だけど、受け取る人は無意識にティッシュの重さを記憶から引き出してそれを元にどれくらいの握力でティッシュを受け取るか計算しているので、重さが違うとうまくティッシュを掴むことができない。

 この人間の予測システムは2つの意味合いで武術に応用されていると思う。
 一つはフェイントに近い形で、相手の計算の外に出て裏をかく時。
 もう一つは、自分の計算方法を変更することで自身のパフォーマンスを上げる時。
 本当はこの二つは二つで一つかもしれない。

 フェイントの方は特に説明がなくてもわかりやすい。肩が全く動いていないのに突きが飛んできたら反応できない、というような状況のことです。僕達は無意識に「人間の動きはこうだ」という思い込みを持っています。話をボクシングか何かに限定してみるとより端的に分かるのですが、”正しいパンチ”というものが、足を回転させて腰を回転させて肩を回転させてから繰り出されるものであり、それを全てのボクサーが実行するのであれば、足の動きや腰の動きを見ていればパンチが来ることは先に分かります。そしてこの前提の元で避ける訓練を積んだ人が、”正しくない”パンチの仕方で殴られるとあっさり殴られてしまったりする。

 パンチの仕方のように敢えて学習したものでなくても、僕達はそれぞれが自分の体の動かし方を元にして「人はこういう風に動く」というパターンを頭の中に持っていて、それをベースに様々な予測計算を行っている。
 だから、このパターンが自分と全然違う人がいるとその人の行動に対応することは非常に難しい。そこで自分のパターンを多くの人とは違う形に書き換えることで、ノーマルなパターンを包含する形に増やしてやることで、他人と対峙したとき自分がより有利になるということもあるのではないか、というのが武術の一つの発想である。

 これは自分の身体イメージを書き換えるということだ。
 通常、僕達は動作を、関節によって繋がれた固い骨、それを動かす筋肉の二つの要素で考える。腕は肩を支点として円弧を描くように動くとか、上腕筋が縮んで肘が支点となって腕が曲がるだとか、そういったイメージだ。深い医学の知識がなくても、大体の自分の体の動きは生活のうちに理解される。
 武術家には敢えてこのイメージを壊す人が多い。
 たとえば全身が液体の詰まった袋であると考える。腕は肘でしか曲がらない筈だが、別にどこでもグニャグニャと曲がるのだ、というイメージで動く。体を細かく細かく割って動かす(そういえばハンマー投げの室伏さんは背骨の一つ一つを動かせるとか)。全身の全てが重心だと思い込む。体の左半分右半分が互いにスライドするように動く。目ではなく胸で見る。足の裏で呼吸をする。

 物理的な実体をしての身体に照らし合わせると滅茶苦茶だけど、それでも高いパフォーマンスを発揮することがあるようだ。僕は実際に圧倒される不可解な動きを体験したことがある。

 「身体イメージを書き換える」というのは、昨日ブログに書いた整体でも同じことだと思う。
 
 内田樹先生は昔、三軸自在修正法という整体によって、医者から正座や階段の昇り降りを禁止されるほどだった膝の痛みをあっさりと治して貰った、と何処かに書いておられました。その三軸自在修正法というのは、僕も本を読んでみたのですが、もうなんというか近年稀に見るぶっ飛んだ怪しさでした。三軸では体を押したり引っ張ったり曲げたりするのではなく、主に言葉や小物を使って身体イメージを変えることで治療するようです(患部の近くで振り子を回したり、、、)。
 僕はこの整体を体験したわけではありませんが、内田先生が事実無根なことを書かれているとは考えにくいですし、有名なアスリート達もこの治療院へ通っているということなのできっと効果はあるのだと思う。根拠が説明されないけれど効果を発揮するものはこの世界に沢山ある。なんて面白いんだろう。

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)
鷲田 清一
筑摩書房


合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論 (朝日新書 64)
内田 樹,平尾 剛
朝日新聞社

無水トイレ

 先日ツイッターで「無水トイレというのに初めて入った。きれいだった」というような事を書くと、すぐに友達から「汚かったよ」という反応が帰ってきた。聞けば場所も同じ難波だったから、たぶん同じ型式のトイレだろう。汚い、綺麗、という2つの状態があったということは、論理的に考えてそのトイレは汚くなるということだ。僕が見たとき偶然掃除直後か何かだったのだろう。

 無水トイレというものの存在を、僕はこのときに初めて知った。男子用のトイレで用を足そうとすると、壁に「このトイレは無水トイレです。水は流れませんが清潔に保たれるようになっています。水資源の節約に私達は努めています」と書いたステッカーが貼りつけてあり、僕は少し奇妙な気分でトイレを使った。一体どうやって清潔さを保っているのだろうか? 表面のコーティングが超撥水になっているのだろうか?いや、光触媒か? 弱い紫外線を照射していて殺菌と同時に光触媒で汚れを分解しているのだろうか? それとも電圧が掛けてあって汚れと細菌が泳動するようになっているのだろうか?

 清潔を保つようになっている最新式の便器です。と言われても、不特定多数の人が放尿する水の流れない便器の中を眺めるというのは気持ちの良いものではない。でも仕組みが気になるので少しだけ眺めない訳にも行かない。
 ざっと見たところでは超撥水ではなさそうだった。電極らしきものもない。紫外線を照射してるような雰囲気もない。一体どうなっているのだろう?

 後で調べてみると話は至極単純だった。
 便器の表面には別になんの工夫もなされていない。
 工夫されているのは単に排水口のトラップだけだった。トラップには比重の軽い特殊な液体が入っていて、それが尿の表面を完全の覆い匂いを防ぐという仕組み。
 さらに、「今までトイレが臭くなっていたのは尿のせいではなく、尿と水道水の成分が反応していた為だ、尿だけなら臭くならない! 水アカも付かないし汚れない!水を流さないという素晴らしき逆転の発想!」みたいな感じのこともいくつか書かれていた。

 僕にはとてもこれで「清潔を保つようになっている」とは思えないですが、そういうことだそうです。
 取り敢えず、これを「OK!清潔だ!」ということにして話を進めると、この無水トイレには想定外の問題がありました。

 ツイッターで友人が「汚かった」と返事をくれたわけですが、その汚いというのは別に「おしっこ臭くて汚かった」というのではなかったようです。そうではなくて、人体に由来する縮れた繊維が落ちていて汚かった、ということでした。

 なるほど。
 そのリプライを読んだ時に、僕はすごい盲点を突かれた気分になりました。
 あまり尾籠な話は書きたくないけれど、こうしてトイレの話を書いているのはそのときのインパクトが大きかったからです。
 僕は「男子用の小便器で清潔さを保つ」という問題を、勝手に「オシッコで汚れないようにする」という風に読み替えていました。他の要素を完全に排除していた。でも、実際のところ小便器の中には他の「汚れ」も落ちてくる。不可抗力として落下する縮れた毛だけではなく、唾や痰を吐く人もいる。そういった当然のことを僕はすっかり忘れていた。

 この便器を開発したエンジニアの人たちは多分このことに気付いてはいただろう。でも、もしかしたらた最初は気付いていなかったかもしれない。
 どちらにしても、自分の思慮の浅はかさを思い知りました。

限界デザイン (TOTO建築叢書)
三宅 理一
TOTO出版


マッターホルンの空中トイレ―女性登山家が語る山・旅・トイレ (TOTO BOOKS)
今井 通子
TOTO出版