連載小説「グッド・バイ(完結編)」26

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・困惑(三)

 例のぬらつく部屋に、田島は悲壮な顔で上がった。ああどうか金毘羅様、ここにあって下さい。さもなくば僕はもう生きれません。信心なんてなんのその、カミもホトケもあったものか、傲岸不遜、冗談で貼りつけた金毘羅の御札に今頃お願いしている。
 でも、どこを見たって、ない。
「押し入れの中も、見せてもらう。」
「押し入れは、見るだけよ。指の一本触れたら、許しません。」
 左手で、さすがの田島もあの高貴を思い出し、そろりと開ける。シンデレラの楽屋は今日も綺羅びやか。でも、狭い部屋の、狭い押し入れ、一目でここにもない。
「もう、見たでしょ。部屋の中をジロジロ見られて気色が悪いわ。あなたのものなんてケチ臭くて下駄の片方も取りはしないわよ。」
 キヌ子は、潔白。へなへなと、田島は腰が砕けて、黒光りの魚臭い畳にしゃがんだ。田島はようやくガーゼを当てがって、案外上手に、口でクルクルと包帯を巻いた。ああ金毘羅様はちゃんと祀るべきであった。
「じゃあ、一万、ちゃんと頂戴。そんなに落ち込んだみたいな顔したって、貰うものは貰う。」
「お金は、ない。」
「だめよ、そんな嘘。お出し。」
「本当にないです。全部入った金庫が盗まれた。」
「あら、さっき上がって金庫がなければ出すって言ったけれど。」
「あれは方便だ。」
「うわあ、平気で嘘ついた。だからあなたなんて誰からも信頼されないのよ。」
「あのね、君ね、ちょっと僕は今それどころじゃあないのだけれど、その、お金が全部取られたのですけれど、あなたもお金の苦労は分かるはずだ。」
「また話を誤魔化して。あなたのお金が取られても知りません。だいたい金庫に入れて部屋になんて馬鹿みたい。」
「じゃあ、君はどこへ。」
「それを言っちゃあお終いじゃないの。」
 キヌ子はクツクツと笑った。
 そして、「探偵でもやとえばどうかしら。高いけれど。」

連載小説「グッド・バイ(完結編)」25

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・困惑(二)

 キヌ子は包帯とガーゼを取ってきて、田島に渡した。もちろん、差し出さるるは右手。
「2000円に負けてあげるわ。」
「高すぎる、そんな人をバカにした値段。僕は怪我人だぞ。それも君のせいで。」
「じゃあ、いらないのね。」
「もらいます。」
 田島はケガが苦手。手が痛くてすっかり弱気。
「軟膏もあるけれど、ガマの油とか、もう2000円でどう。」
「えーい、それももらう、この冷血人間。」
「あら、あなたの方こそ、なんだか変に頭に血が上って。冷血の方がずっといいわ。」
「それよりも、ちょっと部屋に上がって、包帯巻いてくれませんか。」
 キヌ子が入れてくれないので、田島はまだドアの外。
「駄目よ。」
「駄目とはなんだ、怪我人に対して失礼じゃないか。包帯も自分じゃ巻けないし。僕は右利きだ。」
 お金も盗まれて、手も痛くて、もう言っていることがおかしい。
「包帯なんか犬でも口で巻くわよ。押しかけて来たくせに。」
 待てよ。部屋に入れないなんて。ますます怪しい。
「いや、部屋にはあがらせてもらう。断じて。これは、事件の捜査だ。」
「変な言いがかりつけて上がり込もうなんて、そうは行かないわ。上がりたいなら1万お出し。」
 こんな汚い部屋に上がるのに1万。ネギ1本でも買うほうがまし。しかし田島、追い込まれていて必死だった。
「よし、じゃあ、上がって何も無ければ1万払ってやる。もしも、金庫があったら、見てろ。」
「じゃあ、どうぞ。私も、あなたみたいな大根頭に言いがかり付けられたままじゃあ、うす気味悪くって昼寝もできないし」

連載小説「グッド・バイ(完結編)」24


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・困惑(一)

「あら、田島さんじゃないの。」
 ドアから顔を覗いてキヌ子が言った。田島は右手を抑えてウグググと気味の悪い声を出しながら蹲っていて、眼鏡も床に落ち、なんだがかわいそう。
「ものすごい剣幕で誰か来たから、強盗と思ってドアに体当たりしたの。」
「き、きみね、、」
 田島はそれが精一杯。
「なに、痛そうにして、そんなに大袈裟にして、さては治療費を貰うつもりだな。」
 怪訝な顔でキヌ子は田島を見下ろしている。
「お、大袈裟とはなんだ、これは、もう骨まで折れたに違いない。手がどうにかなったらどうしてくれる。」
「これくらいどうにもないわよ。手加減したのに」
 手加減? あれで手加減? 田島は痛みに歯をくいしばる。
「あんまり強くして、ドアが壊れたら大家さんにいくら修理賃言われるかわからないから。」
「ひっ、血、血が出ている。これは、君、どう責任とってくれる。」
「責任なんて、あなたがドスンドスンやって来て急にドアを開けるのが悪いんじゃないの、知ったこっちゃない」
 あー、キヌ子を怯え上がらせてやろうなんて思ったのが間違いであった。このご時世、女一人の部屋に、脅迫の音をわざと立てて近づいたのは田島。急にドアを開けたのも田島。もう手が痛くて気持ちがしょげて、甲から血も出てるし。とりあえず、包帯でももらって。いや、ちょっと待て。キヌ子を驚かしたのには訳があった。えーい、この泥棒、ぬけぬけと、あら田島さんじゃないの、なんて。
 田島はようやく立ち上がって、「もう、手はいいです、ちょっと包帯だけ下さい。それでね、あなた盗んだな。」
「へっ、何のこと?」
「知らないふりをしても駄目だ、知っているぞ」
「盗むなんて、人聞き悪いことを。お金でもなくなったの? どうせあなたのことだから、どこかで酔っ払って使ったのを覚えていないんだわ。都合の悪いことだけ忘れて。お金がなくても包帯のお金は払ってもらう。」
 とぼけて、自分の負わせた怪我の包帯代まで払わせようなんて、このとんだ強欲。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」23

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・迷走(四)

 キヌ子のアパートまで一目散と行きたいところだが、田島が人通りのある往来を走れるわけない。あははは、あの人は、あんなに急いで、何か大変なことでもあったのだね可哀想に。と、笑われているような気分になってしまう。電車にもバスにも、あとちょっと急げば間に合うのに、絶対に駆けない。いえ、もともと次のに乗る予定ですから。今も平静のふりをして歩いているのだが、どうしても足早。走らぬように、かといってゆっくり歩かぬようにの中途半端な変な動き。よっぽど、かえって嘲笑の的。眼鏡もずり落ちている。
 もう昼下りの三時半なので、キヌ子はきっと部屋にいるであろう。あの強欲のこんちきしょう、いい気になりやがって。田島は激怒していた。こんなに心底怒ったことはこれまでにない。なんといっても金、金、金の男。色男の名誉も恥も外聞もかなぐり捨ててコソコソと、真っ黒な苦労の果てにがっぽり貯めこんだお金が盗まれてただでいられようか。誰が見ても、キヌ子が悪い。もうどんなひどい報復をしたって、誰も文句は言わぬ。
 アパートのところまで来ると、もう人も歩いていない。田島は急にわざと喧しく足音を立てて階段を駆け上る。どうやら憤怒の演出表現。この人は、どんなに怒っていても、結局のところ自分の心だけに集中することができない。人のことが気になって演出を、どんなときにもいつもしてしまうのだ。階段を上り、今度は廊下もやはり念入りにドタドタと音を立ててキヌ子の部屋に迫る。ヒヒヒ、これでキヌ子も何事かと慌てふためくに違いない。
 が、次がいけない。
 田島、ドアの前まで来て止まってしまった。えー、急にドアを開けて、おい泥棒猫なんて叫んだろうか、それともドアを開けないで叩きながら、ヤイこの盗人め、などと叫ぶのがよいか、どっちかな。
 狡賢い強欲のウソつきの見栄っ張りのチンケな人間はあったが、神経質で優男の田島、これまでに乱暴をしたことがなかった。
 結局、ドアをノックしながらちょっと開けて、「あの、君、ちょっとお話が。」
 中を覗き込もうとした次の瞬間、ドアが内側から体当たりされて、ものすごい力と勢いで閉ざされる。
 「ぎゃー」
 田島は右手がドアに挟まった。激痛。ああ、もう、これは折れたに違いない。気が失われそう。
 つい、キヌ子の怪力を忘れていた。怒りは身を滅ぼす。これ真なりや。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」22


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・迷走(三)

 ないわけない。田島は浮ついたまま金庫を探した。いやいや、よく見ればその辺に転がっていて、なあに見逃しているだけさ。自分に言い聞かせるも、もう胃袋は飛び出しそう。あたり構わずひっくり返す。ネズミの干からびて死んでいた場所もなんのその。ひょうたん、人形の首。大鍋小鍋。田島の部屋が散らかっているのには、一つだけそれらしい理由もあった。田島は闇屋で稼いだお金、全部金庫へ入れて、それをこのアパートへ隠していたのだが、まさかの泥棒が入った時に簡単に金庫が見つからぬようにわざと部屋を滅茶苦茶にしていた。さらに金庫は金庫に見えぬよう、見窄らしい油塗れのドロドロの赤茶けた布に包み、それをまたこれも見窄らしい半分朽ちたような木箱に入れて釘を打って蓋をして、最後のまじないに「教科書とノート。我が学業に励みし日々の記録ナリ。大事に取っておくべし。厳重の保管怠れば直ちに金毘羅様の天罰が下るであろう。」と筆で書きなぐった紙と、どこかでもらった虎ノ門の金毘羅さんの御札を貼り付けてあった。こんな貧乏臭いアパートの不潔にあれこれが散らかっている部屋の中で、誰がこんなケッタイな箱を開けて盗んでやろうなんて。自分でも手袋をしないと、嫌だ。
 でも、どこを見ても箱はない。三尺四方の箱が、この狭い部屋の中でこれだけ探して見当たらないというと、もう、ここにはない。
 と、とりあえず、け、警察。か? いや、いかんいかん。あんな大金。知られたら。
 しかし、田島一人でどうする。
 相談相手は、結局永井キヌ子の他ない。ネズミは自分で頑張ったが、今度は強欲女史に頼むしかないだろうか。だたの無教養の怪力が、泥棒事件の解決に役立つとも思えなかったが、もう田島は本当に心細い。
 いや、はて、ちょっと待て。
 キヌ子は田島がうんとお金を溜め込んでいることを知っているし、住所なんて電話帳で調べれば。
 そしてあの怪力。
 田島は部屋を飛び出した、と思ったらすぐに戻ってくる。服を、着替えるみたい。こんな有事に際しても掃除の着の身着のままでは外に出れない模様。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」21

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・迷走(二)

 田島は「オベリスク」の仕事にここ数日精を出している。闇屋からはもう足を洗う。そう決めた。お金はもう十分。闇はもうたくさん。これからは真っ当な誰にも胸をはれる仕事をしよう。良く良く見てみれば「オベリスク」なかなか田島好みのおしゃれな雑誌。だいたい、誰でも雑誌の編集長になれるというわけではない。ここは僕が引き受けます。ええ東京に、いや日本に、広く伝えねばならないカルチャーがあるのです。僕は、それに身を費やす。見ていてください。
 珍しく、いやはじめてアパートの掃除もしている。酒は飲まぬ。出歩かぬ。きちんと生活の礎を築く。生活の一歩は住まいの整理整頓と清潔なりや。かつて、かのゲーテもそんなことを言っています。おっと、思わず一人で、自分に嘘を言っている。本当はもう駄目かもしれない。すみません、僕は本物の嘘つきです。はあ、と大袈裟なため息をついてから、気をとりなおしてガラクタを次々と放り出す。ひょうたん、割れた電気の傘、読めないドイツ語の本、日本人形の首。この寝るだけの部屋に、覚えのないものがよくもまあこんなに。誰か勝手に上がり込んでいるんではないかと思えるくらい。パリンパリンに乾いた招き猫の手ぬぐい、膝の破れた股引、それからこれは。うひゃあ、乾いたネズミの死骸。田島はネズミが苦手。死んでいる生き物も苦手。ああ掃除なんてするんではなかった。でも、もう後戻りは出来ぬぞ、おキヌ。とっさに浮かんだのはキヌ子。あのヌラヌラの不潔極まりない部屋に平気で住む怪力のキヌ子であれば、きっとネズミの一匹や二匹なんでもない。電話して、来てもらおうかな。いやいや、とんでもない。そんなことを頼んだらいくら払わされるか。それに色男のメンツにも関わる。くー、誠にこのネズミどうしたろうかしらん。ど、どこかに火バサミ、火バサミあったはず。隅っこしかないような狭苦しい部屋の隅っこにまだ出しっぱなしの火鉢があり、そこへ乱暴に突き刺したままの火バサミを抜き取り、田島は干からびたネズミをなるべく見ないようにしながら火バサミを近づける。しかし、このネズミの大きさ。これ、本当にネズミでっしゃろか。どこ摘んだろうかしら。火バサミがネズミの尻尾に触れた。ああーこの手応え。まさに今、間接的に、触れている。ううう。田島は思わず変な声を出しているが気づいていない。尻尾を摘み上げた。
 が、摘んで果たしてどうする。駄目だ、持っていく先がない。火バサミを持った右手がもうガタガタと震えている。無計画は身を滅ぼすと、ゲーテも。いやそんなことを言っている場合ではない。あ、そう。埃がこもらないように窓が開いている。田島は窓の外にネズミを放り投げた。往来に人があれど、仕方なし。他に手立てがありません。緊急の行為。きっと許される。
 震えの収まらぬまま、田島は部屋の真ん中へ戻り、ネズミの死んでいた辺りを遠巻きにして清掃を再開した。そして極めて奇妙な、かつ重大なことに気が付いた。
 金庫が、ない。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」20

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・迷走(一)
 参宮橋から代々木方面へ、通りを男が歩いている。早い春の夕方、風も冷たく通りを歩く人達の外套もまだ見目重い。黒に焦げ茶色に、カーキ。丸めた背中やすくめた首が、街灯も増えてきたといえ、街並みをどんよりさせている。そんな中、この男だけは、随分薄手の、さわやか藍色のコート。見ればそこそこの好男子。背もまっすぐに正面向いて、颯爽歩いている。溌剌の男子とはまさに彼のことだろうか。
 いや、そんなわけない。なぜなら、この男、田島。本当は分厚いコートが着たかった。寒い。鳥肌が出る。我慢して春先取りの軽装。オシャレだと、思いたい。鳥肌がばれてやしないか、ビクビクとして、いやビクビクとしてるのは凍えてるのか、よく見れば顔色も青白いし、あっ、蹴躓いた。
 田島は戸崎さんのうちへ向かう途中であったが、歩いているうちに面倒になってきた。この道も、戸崎さんに知り合って最初のうちは心綺羅びやかに歩いたものだ。それがいつの頃か、段々と歩くのが面倒臭くなって来た。今日は特別に足が重たい。キヌ子は連れていない。田島一人。回りくどい演技は卑怯で失礼だと今更ながら思ったから? なあにそんなわけない。この間、田島はキヌ子にコテンパンに言われ、そして落ち込んだのだ。腫れ物には触らぬ。臭いものには蓋と錘と閂。が信条の田島はキヌ子にはしばらく近寄れぬ。いつの間にかキヌ子が少し怖い。こき使ってやろうと思っていたのがいつの間にか打ちのめされている。強欲女史のおっしゃることは地に足が着いていて、田島のどこかで聞きかじった話とは違っていた。田島の話は伝聞。薄っぺら。嘘。ただでさえ最近は虚しい気持ちがしていたのに、キヌ子に突かれてもうボロボロ。
「やあ、少しご無沙汰ぶりです」
 おかしな挨拶をして田島は戸崎さんの家に上がり込む。
「お茶を淹れてきますわね」
「ええ、どうもそれは助かります。外はまだ寒いですから」
「そんな格好ではさぞかし寒かったのでしょうね、少しお顔も真っ青で」
 しまった。
「まあ暖かくも、なって来てはいます」
 戸崎さんは唐草のような模様の付いたティーカップにお茶を用意してくれて、
「近いうち、海へ行きたいですわ。私どうせ泳げやしませんから、寒くても静かな海の方があうの」
 田島も泳げなかったが「そうですか、寒い海もきれいなものです」とだけ。
 何も、今日言わなくてもいいではないか。綺麗な海を2人で見て、またその後ででも。
 やっぱり、キヌ子がいないとダメかもしれない。