連載小説「グッド・バイ(完結編)」21

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・迷走(二)

 田島は「オベリスク」の仕事にここ数日精を出している。闇屋からはもう足を洗う。そう決めた。お金はもう十分。闇はもうたくさん。これからは真っ当な誰にも胸をはれる仕事をしよう。良く良く見てみれば「オベリスク」なかなか田島好みのおしゃれな雑誌。だいたい、誰でも雑誌の編集長になれるというわけではない。ここは僕が引き受けます。ええ東京に、いや日本に、広く伝えねばならないカルチャーがあるのです。僕は、それに身を費やす。見ていてください。
 珍しく、いやはじめてアパートの掃除もしている。酒は飲まぬ。出歩かぬ。きちんと生活の礎を築く。生活の一歩は住まいの整理整頓と清潔なりや。かつて、かのゲーテもそんなことを言っています。おっと、思わず一人で、自分に嘘を言っている。本当はもう駄目かもしれない。すみません、僕は本物の嘘つきです。はあ、と大袈裟なため息をついてから、気をとりなおしてガラクタを次々と放り出す。ひょうたん、割れた電気の傘、読めないドイツ語の本、日本人形の首。この寝るだけの部屋に、覚えのないものがよくもまあこんなに。誰か勝手に上がり込んでいるんではないかと思えるくらい。パリンパリンに乾いた招き猫の手ぬぐい、膝の破れた股引、それからこれは。うひゃあ、乾いたネズミの死骸。田島はネズミが苦手。死んでいる生き物も苦手。ああ掃除なんてするんではなかった。でも、もう後戻りは出来ぬぞ、おキヌ。とっさに浮かんだのはキヌ子。あのヌラヌラの不潔極まりない部屋に平気で住む怪力のキヌ子であれば、きっとネズミの一匹や二匹なんでもない。電話して、来てもらおうかな。いやいや、とんでもない。そんなことを頼んだらいくら払わされるか。それに色男のメンツにも関わる。くー、誠にこのネズミどうしたろうかしらん。ど、どこかに火バサミ、火バサミあったはず。隅っこしかないような狭苦しい部屋の隅っこにまだ出しっぱなしの火鉢があり、そこへ乱暴に突き刺したままの火バサミを抜き取り、田島は干からびたネズミをなるべく見ないようにしながら火バサミを近づける。しかし、このネズミの大きさ。これ、本当にネズミでっしゃろか。どこ摘んだろうかしら。火バサミがネズミの尻尾に触れた。ああーこの手応え。まさに今、間接的に、触れている。ううう。田島は思わず変な声を出しているが気づいていない。尻尾を摘み上げた。
 が、摘んで果たしてどうする。駄目だ、持っていく先がない。火バサミを持った右手がもうガタガタと震えている。無計画は身を滅ぼすと、ゲーテも。いやそんなことを言っている場合ではない。あ、そう。埃がこもらないように窓が開いている。田島は窓の外にネズミを放り投げた。往来に人があれど、仕方なし。他に手立てがありません。緊急の行為。きっと許される。
 震えの収まらぬまま、田島は部屋の真ん中へ戻り、ネズミの死んでいた辺りを遠巻きにして清掃を再開した。そして極めて奇妙な、かつ重大なことに気が付いた。
 金庫が、ない。
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