書評:『非道に生きる』園子温

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)
園子温
朝日出版社

 園子温監督の著書「非道に生きる」を読みました。
 金子光晴の「おっとせい」を冒頭に掲げて、この本は始まります。

『だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで
 侮蔑しきったそぶりで、
 ただひとり、 反対をむいてすましてるやつ。
 おいら。
 おっとせいのきらひなおっとせい。
 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
 ただ
 「むかうむきになってる
 おっとせい。」  』

 金子光晴の名が出てくると、僕は必ず彼の「さくら」という詩を思い出します。

『さくらよ。
 だまされるな。
 あすのたくはへなしといふ
 さくらよ。
 世の俗説にのせられて
 烈女節婦となるなかれ。

 ちり際よしとおだてられて、
 女のほこり、女のよろこびを、
 かなぐりすてることなかれ、
 バケツやはしごをもつなかれ。
 きたないもんぺをはくなかれ。 』

 引用した部分は詩の終わりの部分ですが、この詩が発表されたのは1944年の5月で、同年3月には戦時下体制の為、宝塚歌劇団が休演、松竹少女歌劇団が解散して松竹芸能本部女子挺身隊が結成されています。金子光晴はざっくりと反逆の詩人と呼ばれていて、その反逆性のようなものがこの詩にも色濃く表れている。

 さて、本書では前半に園子温の生い立ちが綴られています。
 小学生のときにどうして裸で学校へ行ってはいけないのだと思い、本当に裸で学校へ行ったという記述があります。それが駄目だと言われると今度は性器だけを露出させたりしていたようです。
 起立、礼、着席にも一度も従ったことがなくて、学校では毎日教師に殴られていて地獄だったとも書かれています。僕は自分が小学生のときに素直に起立、礼、着席をして、それどころか前に倣えも、小さく前に倣えも、全部教師に従ってやってしまっていたことに物凄い後悔と恥ずかしさを覚えていて、それをとても重たく抱えて生きているので、この辺りは端的に嫉妬せざるを得ない。
 学校へ裸で行くという行動は一見するとエキセントリックですが、実は園は家を出る時から裸だったわけではなく、家を出てから服を脱いでいます。親の前ではできなかった。「やっぱりおっとせいはおっとせい」なのです。でも「むかうむきになっているおっとせい」なのです。

 小学校のあと、中学、高校、大学、20代と、時間軸を追って半生が語られます。小学校のエピソードから想像されるように、実にダイナミックな半生です。結果的に彼は映画監督として「成功」するわけですが、本の後半にこのようなことが書かれていました。

『作家が自分の価値観を守り抜くために必要なのは、冗談に聞こえるかもしれませんが、貧乏に負けないことです。自分の身の周りを思い起こしてみても、僕の好きな作家の幾人かは貧乏に耐えきれず、ある種のステータスを求めてどんどん他の業界へ去って行きました。
 かつて40代で四畳半の部屋に住んでいた僕は、「こんなところに住んでいて恥ずかしくないの?」とよく言われていました。でもヘンリー・ミラーアルチュール・ランボーといった放浪作家に愛着を持っていた僕には、羞恥心がまったくなかった。むしろ「いい歳こいて貧乏」はかっこいいと思っていたくらいです。』

 ぐっと来ました。
 僕はどちらかというとこういうタイプの人間でしたが、ここのところどうしてよいのか良く分からなくなってきていたのです。貧乏に負けそうな気分をしばしば味わっているということもあります。園子温がこういう風に書いているから、やっぱりそれでいいんだと単純に思ったわけではありません。特に311以降激しい無力感に苛まれて、金、権力、武力と言った分かりやすい力が、社会のある部分と戦うときに必要なのかもしれないと思うようにもなりました。

「四畳半を出よ」と昔書いたこともあります( http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/29ed049773e2daf3ee6bf1b11e4fc0d5 )。
 これは森見登美彦の「四畳半神話大系」というタイトルに激しいいやったらしさを感じたことと、村上隆の「芸術=貧乏」という図式が日本にインストールされているという意見から、「良い青春=貧乏」という図式の中で自分たちは生きてきてしまったのではないかという反省を導出したものです。
 だから、僕は貧乏に対する憧れのようなものも、別にもう持っているわけではなくて、ただ”あちら側”の差し出してくる「どうどう、これ買ったら幸福な気分になれますよ」「こういうことするのが幸福ということですよ」「こういうことしない人はかわいそうな人ですよ」という、つまりコマーシャルと定式化された風潮作りに対する苛立ちを持っていて、そういうものには従いたくないと心がけているだけのことです。
 そうは言っても、「作家が自分の価値観を守り抜くために必要なのは、冗談に聞こえるかもしれませんが、貧乏に負けないことです。」という一文から強い力をもらったことには違いありません。

 本文の最後はこのように締めくくられています。

『これまでずっと同じ気持ちで映画を作ってこれたのは、極端に言えば「何を見ても面白く無いぞ」という精神があってのことだと思います。人はそれを「反逆」というかもしれません。気にかける必要はない。それは別に、反逆でも反抗でもない。自然なんです。ただ好きなよう自分が面白いと思ったことを追求すればいい。いつの間にか他人はそれを「非道」と決めつけるでしょうが、そんなときも自分が自分の良き理解者であり、パートナーであればいい。自分を見捨ててはいけません。非道であれーそのために、若い世代は自分の敵を見つけてほしい。そうした人たちの相手であれば、僕自身が敵になってもかまいません。』

 僕はなんとなく岡本太郎「今日の芸術」を読んだときの気分に近いものを感じました。
 とても力のある本だと思います。


非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)
園子温
朝日出版社

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)
岡本太郎
光文社


金子光晴詩集 (岩波文庫)
金子光晴
岩波書店


芸術闘争論
村上隆
幻冬舎