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打ち捨てられた古いホテルの中で眠ったこと


 温泉街をフラフラと笑いながら歩く人達を見上げている。夏の夕方6時はまだまだ明るくて暑くて、でも川の畔でゴロゴロとしているのは快適だった。如何にも観光地らしく、完全に舗装整備されたこの小さな川は、温泉街を道路から数メートル低くなった形で流れている。僕達はそこで餃子を食べたりビールを飲んだりして、バックパックを背もたれに、だらしのない格好でそれぞれに本を読んでいた。通りがかった女の子が教えてくれたところによると、7時から祭りがあるということだ。小さな仮設ステージでは龍笛を鳴らしながら音響調節を行うPAの男がセッティングを終え、浴衣を着た4人の女の子達がフルートで当たり障りのない曲の音合せをしていた。
 数メートル上を歩く温泉客を眺めて、僕は彼らとはまるっきり別の世界にいるような気分になる。彼らは温泉街で寛ぐのに適した、すっきりとした軽装をしていて、僕はテントを括りつけた大きなバックパックにもたれている。昨日は、とある閉鎖された登山道を登り、とある山の中にある、とある廃ホテルにテントを張って眠った。打ち捨てられ、朽ちていく大きな建造物の中で、微かな怯えを抱えながら眠るのは非日常的なことだった。日常というものをグラフの原点にとれば、廃ホテルの非日常性というものは、きっと温泉観光の持つ非日常性とは反対方向に向かうものだろう。

 Kと二人で、その柵を乗り越えて山道に入ったのは昨日の夕方だ。それまでも僕達は随分な坂道を上がってきたのだけど、柵から手前はまだ町の外れで、柵から向こうは"山"だった。その象徴として、柵からすぐの所で僕達はイノシシに遭遇した。イノシシは遠くから聞こえてくる雷鳴のような唸りを残して姿を消した。
 急勾配の山道にバックパックは重い。夏の空気は暑く湿っていて想像していた以上に体力を消耗する。すぐに全身から汗が吹き出してシャツとズボンがずぶ濡れになる。思わず何度か休憩を挟んで登ることになったけれど、日が暮れる前には廃墟に着いておきたかったので、そうのんびりもしていられない。それに、休憩と言っても展望が開けているわけでも、心地良い風が流れているわけでもなく、ただ草木の生い茂った山道の斜面に立ち、蚊を払いながら呼吸を整えるだけだった。特に長い間楽しみたいと思うような休憩でもない。水を一口飲み、呼吸が回復するとすぐにまた歩き始める。

 そうして、たぶん1時間くらいで目的地に到着した。木々の中に、半ば埋もれるかのようにホテルは建っていた。当たり前だけど、本当にそれはそこに建っていた。周囲を自然界のものではない、独自の生々しい侵食が覆っている。自然界の木や草や動物はこういう風には朽ちて行かない。コンクリートや金属だけが、苔の残骸なのか土なのか、湿っているのか乾いているのか良く分からないものに覆われて朽ちていく。
 幸いなことに夕方の明かりはまだ十分ある。トワイライトマジックは始まったばかりだ。階段の正面は木が生い茂っていて通れなかったので、立派な石の手摺を横から乗り越えて階段に入った。
 遂にやってきた。
 階段を上り、外に海と都市を見下ろせば、その眺望は随分と美しかった。それから背後に目をやり、建物の内部を覗き込む。もう暗くなった室内は深部を訪れようとあまり簡単に思えないような静けさを湛えている。
 2,3百人規模のパーティーが開けそうなホールの写真を簡単に撮り、それから僕達はテラスに出た。テラスとホールの間にある半分外になった屋根の下にテントを張ることにして、荷物を下ろし、他の階を見に行くことにする。テラスのあるここは最上階の4階なので、他の階へ行くというのは即ち階段を下って行くということだ。僕達は外の階段からここまで一気に登ってきたわけだけど、今度は建物の中の階段を降りて行くことになる。建物の内部は暗く、下へ行けば行くほど暗さも増すのであまり気持ちの良いものではない。

 懐中電灯の白い輪郭を頼りに、二人で階段を下る。もう内部は随分暗い。まるで空気が完全に静止しているみたいに思う。
 一つ下の階、つまり三階に出ると、広く取られた廊下だかロビーだかがあり、その隣に大きな食堂があった。暗くてもう写真はほとんど撮れない。レストランには黒電話が一つ残っていて、「これが鳴ったら怖いだろうな」というような軽口を叩き、あれこれ眺めて歩く。窓からの眺めといい、朽ちてはいるものの伺える内装からして、在りし日は良いレストランだったのだろうなと思う。厨房らしき隣の部屋の、さらにその奥には比較的新しい道具類があった。それがいつのものなのかは良く分からなかった。微かな生活感がまだ残っているような気もしたし、遠い過去がただ凍結されてそこに残っているだけのようにも見えた。もしも誰かが住んでいたら怖いなと思う。もちろんオバケのような超自然的なものも怖いけれど、それよりも悪意を持った人間がいればその方がずっと怖い。その誰かは、僕達がここへ辿り着いたのを聞きつけて、どこかに隠れてじっと見張っているかもしれない。

 レストランを出てすぐの所に半開きのドアがあり、奥をライトで照らすと2階へ下りる真っ暗な階段が口を開けていた。今の僕達にとって、それはもはや階段ではなく、まるで海中洞窟のようだった。「ちょっと流石にこれは今無理だなあ」と言って、テラスへ戻ることにする。

 テラスからの眺めは完璧に美しい夜景だった。都市の明かりと暗い海のコントラストが、遠く広がる湾の形をくっきり浮かび上がらせている。海上には四角形の人工島が光を放ち、大小様々な船が行き来する。人口島を飛行機が離着陸する。その現代的な眺めは、80年前に作られ朽ち行くこのホテルとは対照的だった。草木が根を打ち込み破壊しつつある古いコンクリートの上に立って、SFの世界にいるようだと思う。あそこは裕福層の暮らす、しかし管理されきった都市。ここは都市を追われた者たちが住み着いた山賊砦。

 都市を追われた山賊はお腹が空いたのでウルメイワシを焼くことにした。
 僕達が持ってきた食べ物は、ウルメイワシ1パック、リンゴ2個、おにぎり5個、ビスケット1袋、枝豆1パック、ミックスナッツ1袋、ドライマンゴー1袋、水4リットル、ビール4缶、マッコリ1瓶、ウイスキー小瓶1つ、というかなり気楽なものだった。山へ入る直前に二人で蕎麦屋に入って食べてはいたので、一泊ならこれで十分だった。
 実はこの時まで、僕はまだ軽い恐怖心というか緊張みたいなものを心の中に持っていたのだけど、ウルメをKが持ってきたガスストーブと網で焼いて食べていると、そういうものが解消されていった。これは断じてビールやマッコリのせいではないと思う。魚を焼いて食べるという極々平和な行為と、それに伴うある種、間の抜けた匂いが廃墟一帯に漂っているという事実が、心を柔らかく解したように思う。

 ギターを担いで来ていたKはテラスの縁に腰掛けて現代的都市風景に向かい歌を歌った。月は満月の寸前で曇空の向こうから丸い姿を覗かせる。そろそろ流星がやって来るらしいけれど、曇りなら雲で、晴れても明るい月で流れ星は見えないだろう。
 それから僕達は屋上というか、屋根の上に登り、そこでウイスキーを飲んだ。景色は一段と素晴らしく、海から山に向かって吹く風が潮の香りを運んでくる。山の中でときどき何か大きな生き物が移動する音が聞こえる。遠くの現代都市にある動物園から夜の静寂を手繰ってアシカの声が聞こえてくる。コウモリかと思うような大きな蛾がときどき空をよぎり、振り返れば後ろには大きな煙突が倒れて砕けていた。倒れた煙突はどことなくガリバーを連想させた。ウイスキーとドライマンゴーがなくなって、いつの間にか時間も深夜を過ぎていたのでそろそろ屋根を下りることにした。明朝は早くなるだろう。そろそろ眠ったほうがいい。

 テラスに戻る前に、少しだけホテルの外を散策するとまたイノシシがいた。ときどき森の中から聞こえてくるのは彼らの立てる音に違いない。

 歯を磨き、電気を消して就寝。

 浅い眠りの中で、物音を聞いたような気がして目を覚ました。ホテルの外ではなく内側でその音は小さく鳴っていて、テントの方へ近づいて来るように聞こえた。耳をそばだてて聞くと、残念なことにそれは気のせいなんかじゃなかった。何かが微かな音を立ててこちらに近づいてくる。最初に頭をよぎったのが「人」で「オバケ」じゃなかったので、僕も大人になったものだなと思った。結局のところ怖いのは人だ。イノシシにしては音が静か過ぎる。こんなに静かに近づいて来れるのは足音と息を殺した人間か、あるいはもっと小さな動物だ。一応Kを起こした方がいいだろうか。リスみたいな動物だったらその必要はないけれど、人が襲ってきたら戦わなくてはならない。オバケだったら別にほっとけばいいか。足音はテントのすぐ外まで近づいて来た。もしも本当に人で、敵意のある人で、それで槍みたいなものでテントの外から刺されたらやられてしまうかもしれない、そろそろ行動を起こさないとまずいな、と思ったとき、カリカリっという音が聞こえた。カリカリ、パチっ、カリカリ。なんだ。この音なら良く知っている。リスを飼っていたときもモルモットを飼っていたときもネズミを飼っていたときも、彼らはみんなこんな音を立てていた。そして小さな生き物はキュルルと小さな声で鳴いて、僕は眠りに戻った。

 翌朝、Kがテントを出る音で目が覚める。
「まだ、5時だよ。もう一眠りしてもいいけど」
 空はもう随分白んでいて、僕もテントから出ることにした。訳ありでここには遅くても9時までしか居られない。30分余裕を見たら8時半には出なくてはならないし、そろそろ起きても悪くはないだろう。それにお腹も空いていた。歯を磨いたり顔を洗ったりしていると、東から太陽がゆっくりと登ってくる。まだ静かな街を陽光が白く染め上げる。鳥はもう清々しくピーピーと鳴いていて、風もまだ涼しくて、広いテラスやホールを歯ブラシ咥えたままウロウロするのはとても豊かな気分がした。朝の廃墟は実にすっきりとしていて、僕はもうこの場所に軽い親近感すら覚えていた。

 おにぎりを食べ、コーヒーを飲んでいると「ヤッター、ついたー!」という随分大きな声が外から聞こえて来た。まだ朝の6時過ぎだけど、どうやら来客らしい。「わー」とか「すごい」とかいう声が聞こえていたので、何人かのパーティーかと思ったら現れたのは青年一人だった。
「おはよう、こんなとこにテント張って、ムードぶち壊しにしてたらごめんなさい」と挨拶する。一人で早朝、こんな山の中の廃墟にやって来て男が2人いたら警戒するはずだ。彼はまだ19歳で東京からやって来たということだった。日本中の色々な廃墟を回っているらしい。今朝は泊まっていたネットカフェを4時に出て来たという話だ。さらにこの後、岡山のなんとかという廃墟へ向かうらしい。

 一頻り話をしたあと、僕達はキャンプを撤収し荷物を整理して、それから3人で改めて内部探検することにした。なんとなくフラりとやって来た僕達とは違い、正真正銘の廃墟好きらしき彼は「これこれこういう感じの部屋がこっちにあるはずなんです」という風に内部のことも少し知っているみたいだった。
 すでに太陽は肌を焼くように強く登っていて、昨日行かなかった深い階へも下りて行く。「もうこれ以上はやめましょう」と19歳の青年が言うので驚いた。一人で廃墟巡りをするような人でも怖いのか。僕はもしかしたら人並み外れた臆病者かもしれないと思っていたので少しほっとした。もちろんやめずに”これ以上”進む。
 下の方は主に客室とお風呂だった。床が抜けていて通れないようなところを除いて、大体全てを見て、またテラスに戻った。僕達はそろそろ出発の時間だ。テラスで青年とお別れして、再びバックパックを背負い、廃墟を後にする。

 その後、とある境界を乗り越えてまっとうな登山道に入り、ある山の山頂まで出た後、今度はまた別の山の山頂に移動して、そこから、出会ったおじさんが「この辺りで最高のコースだから」と太鼓判を押してくれた素敵な山道に入った。滝があったので、水がほとんど垂直に落ちて行くその数メートル手前でリンゴを冷やして齧り、コーヒーを沸かし、ビスケットを食べる。それから今度はその滝を下から眺め、ついでに別に見つけた滝も眺め、半分沢下りのような感じで清流に沿って山を下りて行く。ビブラムのファイブフィンガーしか履いてない僕の足には気を抜くとヒルがやってきたけれど、それを除けばほとんど完璧なコースだった。

 旅の終わりは温泉地。
 茶色く濁った温泉に浸かりさっぱりした後、僕達はビールや餃子なんかを買い込んで、川の畔で随分長い間ぼんやりと過ごした。そろそろ帰んなきゃね、なんて言いながら。
 温泉街に夜がやって来る。
 今夜もここでは祭りがあるそうだ。

廃墟の歩き方 探索篇
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