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u+n;part2

 先日、福井県まで海水浴に行ったとき、やっぱり海辺の田舎町はいいなと思った。こういう所で一週間くらいのんびりしたいね、という話をみんなでして、そして「うっかり住みたいと思ってしまうけれど、でも住んだら困るだろう」という結論に達した。
 何が困るのかというと、「ある程度多数の若者によって構成された、ある程度活発な文化圏」が存在しないことだ。あるいは「多様な若い人間がフラフラしている空間がない」ということだ。そういう場所がある程度近辺に存在してないと、僕はとても寂しい気分になる。いつもそういった賑やかな場所に居たいというわけではなく、そういう場所が「近くにある」と思えないと寂しくなる。

 都会が田舎よりも魅力的だとしたら、その一番の要因は多分これではないだろうか。別に高層ビルが好まれているわけでも、張り巡らされた地下鉄が好まれているわけでも、溢れかえる店舗が好まれているわけでもなく、多様な若者がフラフラしているということに最大の魅力があるのではないだろうか。
 だから、ビルもお店もなくても、多様な若者がある程度の数集まれば、それは即ち「都市」を形成するのではないだろうか。ひいては、僕はコンクリートで固めた都市ではなく、そういった田舎の環境とパラレルに存在する文化圏としての都市に、誤解を恐れずに言えば、都会的な人間で構成された田舎に、住みたいのではないだろうか。
 第一回目の山人水に行った2005年頃から、ずっとそういうことを考えている。
(その時の日記も残っていました。懐かしい→ http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/7cc1b67d5a203c9ea3871d14f683c1f0 )

 好みの問題として、僕は所謂「土系」の人間でもないので、田舎にみんなで移住してヒッピーファッションで有機農法をしたいというわけではない。時代を遡り、ハイテクを捨てて"昔の人の知恵"的なテクノロジーだけで生活したいとも思ってはいない。人は技術の発達というのも好きだ。

 国立民族学博物館オセアニアの区画に立ち、展示されている様々な道具を眺めながら、改めてそういうことを思った。
 僕はこういうクネクネした木の棒や石や土器だけでは、こういう道具だけではやっていけない。やっていけないというのには二重の意味があって、一つには単純にもっと高度な道具が好きだ、ということ。そして2つ目は、こういう道具を使っていたら絶対に僕達はこれを工夫し改良してしまう、ということ。絶対に。自分が使っている道具に改良を加えて進化させてしまうことは止められない。それは人間の根源的な喜びに関わる部分だ。「ここは、ひょっとして、もう一本棒を付けたら、もっと楽に作業ができるんじゃないの」と、絶対に誰かが閃く。その閃き自体が喜びであり、それを実現することも喜びになる。それを止めるのは、極々普通の意味合いでとても残念なことだ。
 ただ、その閃きが大事なものを破壊するとき、僕達は閃きの実行を自制した方がいいのだろうなとは思う。「あ、そうか、こうすればネズミをラジコンで操れる!脳の研究も進む!」と閃いても、個人的な意見を言わせてもらえば、そんなものは実行に移さないで欲しい。僕達はその手のことを沢山行い過ぎた。人が死ぬかもしれないけれど、自然がぶっ壊れるかもしれないけれど、動物をたくさん殺してみることになるけれど、「でもやってみたい!」とたくさんの閃きが実行された。それが悪いか良いかは分からない。分からないけれど、僕はそれは嫌だ。「悪い」とか「良い」とかいう判断基準には本質的な意味はないとも思う。個人的には「この動物実験でできる新薬で100万人の命が救えます」ということであっても、僕自身は目の前にいるサルの一匹も殺せない。100万人の人には申し訳ないけれど、僕にはそういうことはできない。でも、その100万人の中に恋人や親友や家族が含まれていたら分からない。たぶんサルを殺すだろう。僕はそういう身勝手な人間だ。想像力や倫理的概念が欠如していると言われても、僕はそういう風に近視眼的にしか物事を"感じる"ことができない。理解はできても感じることができないし、理屈で「これで良かったのだ」と心に言い聞かせながら生きて行くこともできない。

 オセアニアの、どこかの島の老人の写真が貼られている。
 彼は石の器に木の実か何かを入れて棒でひいている。これは、僕は改良してしまうに違いない。最初は棒の先端に平たい石か何かを付けて、面と点の間で行われていた擦り潰し作業を面と面の間で行うように変えるかもしれない。次に石臼のようなものを作るかもしれない。次に石臼に水車を組み合わせて、川の水で曳けるようにするかもしれない。
 でも、人類史をトレースするとしたら次段階に来そうな、何かを燃やして得た熱を蒸気機関で機械運動に変えるということは行わないと思う。たとえば豊かな森の木を切って薪を作り、それを燃やして蒸気機関を動かし石臼の動力にする、ということはしないと思う。そんなことの為に僕は木を切れない。地面を掘って掘って、出てきた黒い液体をモクモク燃やして動力にすることも、僕にはできないと思う。だから、僕がもしもテクノロジーの発展に関する全てのポイントに関わっていたら、化石燃料を軸とした現代社会はなかった。同様に、山をダイナマイトで吹き飛ばして鉱物を掘り出して、ということもできそうにないから、金属を多用する社会もなかっただろう。それではどういう社会になっていたのかというと、それは想像の範囲を超えている。結構原始的なままテクノロジーの進化が止まったかもしれないし、有機物質とセラミックなどを駆使したハイテク社会になっていたかもしれない。
 繰り返すようだけれど、こういうものは全部、善悪の問題ではなくて、僕達の趣味趣向の問題であり、そして少なくとも日本という国においては、そろそろ優しいテクノロジーが好まれ始めているような気がする。善悪の問題じゃないということは、偽善ですらないということで、環境問題というのはもっと「僕達は自然が結構好きだ」という単純な動機に帰結して語られても良いように思う。

 先に「技術の発達が好きだ」と書き、ここへ来て「自然が好きだ」と書いたわけだけど、結局のところ僕達はそれらを上手く調和させていくことになる。田舎へ移住した多様な若者達は、その場を作り変えていくだろう。けして乱暴ではない方法で。その予感は、現代建築とファッションにも既に端的に現れている。
(続く)
新装版 道具と機械の本――てこからコンピューターまで
岩波書店


コンチキ号漂流記 (偕成社文庫 (3010))
偕成社