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ブッダ、フロイトを説き伏せるの巻

 僕は子供の頃から結構”仏教”が好きでした。
 禅で武装して宗教の勧誘の人を煙に巻く、みたいなことを楽しみにする嫌な子供でした。
 仏像を拝んだりお経を上げるのではなく、原始的な仏教、ゴータマ・シッダルタの言った事がとても好きで、なんかこの人はカッコいい人だなと思っていたのです。

 ただ、僕はブッダが「禁欲」を説くことが良く理解できなくて、ずっと、なんだかなー、と思っていました。
 半年ほど前に中村元さんの訳された「スッタニパータ」もパラパラ読んでみたのですが、ブッダの生の言葉にもっとも近いと言われているスッタニパータにもやっぱり「禁欲」は説かれています。

 もちろん、禁欲の意義は大体は分かります。
 自分の欲求にまかせてなんでもかんでもやりたい放題するのはまずいだろうと、社会的常識的な範疇では疑問の余地がありません。
 でも、ある程度の節度を守るのであれば欲望に従って動くことは大事なことだというのも、これまた常識の範囲では当然です。
 僕達は欲望を持たなければ、そしてそれをある程度現実化しないことにはツマラナイ味気のない人生を送ることになるからです。

 中庸というか、ほどほど、ということなら、だから理解し易い。
 でも、ブッダは結構厳しい禁欲を説いたりもしていて、もしかしたらこの人はただの変わり者だっただけじゃないか、なんて一時期思っていました。あまり「欲」のことは分かってなかったんじゃないかと思っていました。
 ブッダには「禁欲」なんて言わずに「なんでも欲望のままにやりたい放題するのが良い!一度きりの人生じゃないか。そしたら問題も起きるだろうけれど、それでもいいじゃないか!」みたいな豪快なことを言って欲しかったな、その方が似合う気がするんだけどなー、と思っていました。

 今日、シャワーを浴びていると、親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という悪人正機が頭を過ぎり、そしてブッダの禁欲というのが実は「禁止」ではなくて「許し」だったのではないか、ということに思い至りました。

 ブッダの言説と”仏教”は等価ではありませんが、本文中ではブッダの言ったことを仏教と呼ぶことにします。
 僕は、ブッダは別に「仏教を聞け」とか「実践せよ」とはあまり言わなかったのだと思います。ただ、彼は「仏教を聞いて実践する、というオプションもあるよ〜」ということを言ってただけではないかと思うのです。
 だから、仏教したい人は「禁欲せよ」だけど、仏教したくない人は別に「禁欲しなくていい」わけです。別にどっちでもいいんだけど禁欲という手もあって、禁欲して生きていっても、自分の欲望なんて封じちゃっても、それでも人は良く生きることができる、という「欲望から自由になってもOK」という許容だったのではないでしょうか。

 人は様々な欲望を抱えて生きていますが、みんながみんな「自分の欲望が好きだ」というわけではないと思います。
 極端な例を出すと、人を殺して滅茶苦茶に切り刻みたい、という欲求を抱えて生きている人だって世界にはいます。そういう人の中には「殺すってなんて素敵で楽しいんだろう!」と無邪気に思う人も、もしかしたらいるのかもしれませんが、大抵はやっぱり「どうして私はこんな凶悪で気持ち悪いことをしたいと思ってしまうのだろう」という悩みを抱えることになるのではないでしょうか。
 まあ、こんな大袈裟なことを言わなくても、誰にだって「どうしてこんなことをしたいと思ってしまうのだろう」という葛藤はあると思います。

 そして、次に何を思うかというと「全然褒められたものではないけれど、ダメなことだし、自分でもしないほうがいいとは思うけど、でも、しかし、この”私の内に”これをしたいという欲求があることは確かなのだから、だから私はこれをした方が良いのではないか、自分に正直に行動しなくてはならないのではないか。そうしないと”本当には幸せになれない”のではないか」ということです。

 さっきの「殺人をしたい人」を再び引いてくると、「人なんて殺したくないけれど、殺したいという欲求が自分の中にあることは認めなくてはならないし、幸福とは欲求が叶うことで得られるものだから、だから私は人を殺さなくては本当の幸せや満足を手に入れることはできないのではないか。それでは本当に生きているということにはならないのではないか」
 と考えてしまう。
 もしかしたら彼は”自分に正直に”殺人を行い、一瞬の満足感の後に激しい後悔と罪悪感に襲われるかもしれないし、自制して殺人を我慢し、こんなのは本当の人生ではない、という違和感を抱えたまま生きていくかもしれない。
 どっちにしても、これが欲望に囚われているということです。

 ブッダがしたかったことは、このオブセッションから人を解放することだったのではないでしょうか。
 僕達は、自分を一人の人間だと見なし、人生を一塊の何かだと捉えています。たとえば一つの大きなダイヤやサファイヤのように。どこかに傷が付いたり欠損が生じたら、それで宝石が全部台なしになると思いがちです。「自分の中にあるこの欲望を叶えることができないなら人生は台無しだ」と思いがちです。

 でも、本当はそんなことありません。
 たぶん、僕達の人生は”一塊の何か”ではないと思います。
 もっと沢山の部分に分かれていて、どこかが壊れても全体としては別にどうってことないようにできていると思います。糸電話の糸が切れてしまうと、もう会話はできませんが、インターネットのように複雑な網目として通信路が張り巡らされていると、どこかの通信路が切れても他の通信路を使えば良いだけなので何の問題もありません。スカイプもメールもできる。

 僕達は一つの「欲望」にそんなにこだわらなくても幸せになれる。
 なんなら「禁欲」して全部の欲求を捨てたって幸せに生きていける、というのがブッダの言いたかったことかもしれません。
 

 しばらく前の「ノルウェイの森とフロイトの悪魔」というエントリーで、僕は似たようなことを書いています。
 ここでは「無視しても本当は大丈夫なオブセッション」は「心の傷」です。以下に一部を引用して終わりたいと思います。

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「過去に起こったある出来事。あなたは忘れようとしているし、忘れたふりをしているけれど、でも無意識にはしっかりと刻まれている。その刻み込まれたものを忘れようとしたり、それに蓋をかぶせようなんてしても、そんなのは本当は無駄で、あなたはそれを明るいところへ持ってきて正面から克服しなくてはならない。キチンとその”心の傷””トラウマ”を癒さないと”本当には”幸せになれない」

 これって嘘じゃないかと僕は思っています。
 今から100年位前にフロイトが”発見”した「無意識」。
 あるいは彼が”発明”した「無意識」。
 僕達はそれに縛られているだけではないだろうか。
 本当に「意識できない無意識についた傷」なんてものがあって、「それを克服しなくてはならない」のだろうか。
 現代では当たり前に使われている無意識を僕達は疑わなくていいのだろうか。
 さらには、そういうものを完全に受け入れて「クヨクヨ悩むのが当然のことだし、それが人としての繊細さで、あっけらかんとしている人間よりちゃんと物事を考えているってことでエライんだ」みたいなルサンチマンに捻れた正当化があちらこちらで起こっていないだろうか。

 (中略)

 僕達は不幸も経験するが心の傷なんてものは本当はつかないしそのまま歩いて行ってまた笑うことができる
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フロイト先生のウソ (文春文庫)
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