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プリウスとipad(その1)。

 プリウスのブレーキ問題は結局リコールという形で結論を出した。僕自身はプリウスを運転したことがないし、本当のところどういうことが起こるのか体験したわけではない。でも、色々な情報を当たってみて思ったのは、それが自動車の癖の範疇だろうが不具合の範囲だろうが、少なくともドライバーの感覚とズレが生じていることに間違いない、ということだ。

 ある意味では、ドライバーの感覚と自動車の挙動にズレが生じるのは当然のことかもしれない。何故なら、究極的に自動車というのは(運転の楽しみを一先除けておくと)、完全な自律運転を目的にして開発されているからだ。将来的には人間は乗っているだけで、あとは車が勝手に目的地へ連れていってくれる、というのを頭に置いていない自動車開発者はいないと思う。
 そのとき、車の挙動は搭乗者の感覚とは完全に別の何かになる。そこへ向かう途中の現在、段々とドライバーの支配する部分とコンピュータの制御する部分の比率が変化する中で、こういった問題が起こるのは必然だと言える。

 ABSが必要な時に、回生ブレーキから油圧にスイッチする間タイムラグができるのは完全なプログラムミスだと思う。だからこれは修正されて当然だろう。だけど、まともに運転できる人ならここでブレーキをさらに強く踏んで対応できる、これは癖の範疇だ、というのも間違ってはいないと思う。
 どこまでの性能の無さを欠陥だと呼ぶかはもう趣味の問題だ。ノーマルタイヤしかない時代にノーマルタイヤを売りさばき、即座にスタッドレスが現れたとき、ノーマルは欠陥だからリコールしろ、というか、スタッドレスという更に制動性の高いものができました、というかは文脈の選び方に過ぎない。
 GMが破綻したアメリカの策略だという人も、スターのスキャンダルを煽り立てるマスコミの問題だという人も色々な人が言いたいことを言っていて、結局プリウスに乗ってみないと僕は実際的なことを言えない。

 そういう実際の詳細を省いて、ここで書こうとしているのは、さっきも挙げた「人間がコントロールする部分とコンピュータがコントロールする部分の住み分け」のことだ。
 完全な自動運転の車が出来る前に、自動ブレーキはできてもおかしくない。ABSはタイヤがロックしないように車の方でブレーキの制御をしてくれるシステムだ。ドライバーはロックを気にしないで単にブレーキを踏み込めば良い。あとは車が制御を掛けてくれる。
 次段階として、自動車が周囲の状況(各種センサー及び画像処理で得る)とタイヤからのフィードバックを使って、ドライバーが停止のサイン(ブレーキペダルか押しボタンか何か)を出したら、あとは車間距離から何から何まで完全に自動で最適な制動を掛けて止まる、というものができると思う。
 このとき、ドライバーの感覚と車体の動きにはズレがあるなんてものじゃない。それは全く別の物だ。ここからは車に全部預けるということだ。

 今はまだコンピュータの信頼性も、というかプログラムの信頼性もそれほどは高くなくて、どちらかというと自動制御の車なんて作っても怖くて乗れない、と思ってしまう。でも、やがては人が運転するよりずっと安全に走行する自動車ができる。ナイトライダーのKITTみたいに。
 そして。多分自分で運転することが禁止される時代が来ると思う。丁度今車検で一定以上の規定を満たさない車が公道を走れないみたいに、自動制御じゃない車は公道を走れなくなって、自分で運転したい人はサーキットへ行くしかない、みたいな時代が来るかもしれない(個人的には絶対にそんなの嫌だけど、SF的に十分ありそう)。

 僕は今回のプリウスの問題に関して、まだドライバーは結構な身体感覚を運転に使っているのだと再認識して、それがなんとなく嬉しかった。ブレーキを掛けるとき、僕たちはペダルを通じて、サーボを通じて、油圧を通じて、サスペンションを通じて、タイヤ弾性を通じて、それどころか多分微かなボディ剛性とシートの動き、体に掛かる加速度も感じて、地面と車の関係を察知している(実際のところペダルとタイヤの間は自動制御で一つのブラックボックス化しているけれど)。
 そして、間違いなく体や感覚を使うのは僕たちにとって喜びだ。
 今回のプリウス問題は単に安全性のことだけではなく、ドライバーが車の制御範囲を失いつつあることへの反抗にも見える。多くのリコール必要なし派の人々は「これを車の癖として自分の感覚に取り込めばそれでいいことでしょ」というものだ。

(その2へ続きます)