JaPaNeAsE.


 1986年のアメリカ映画『gung-wo』を見たときに、私が最初に連想したものはソフィア・コッポラの『lost in translation』(2003年、アメリカ)であった。前者においてマイケル・キートンが日本へ圧搾自動車を誘致しに行った場面と、後者の映画で大部分を占める東京の街でビル・マーレイが困惑するシーンはとてもよく似ている。試みにインターネットで検索すると、この2つの映画の類似を指摘する声はとても多く、ここで私が再びその類似性を論ずることは大した意味を持たないと思われる。また、「外国人が日本を訪れる」というシーンを撮影すれば、それらが似通ったものになる可能性は高い。

 そこで以下では、『gung-wo』と『lost in translation』を「アメリカ人の見た日本」として同列に扱い(注1)、「アメリカ人の見た日本」である『lost in translation』を日本人が見るということに焦点を当て、そこから現代日本人の日本に対する視点について考えてみたい。
 
 実は『lost in translation』という映画をコッポラの意図通りに理解できるのは英語圏の人間だけである。それはビル・マーレイがCMのスチール撮影を受けるシーンにおいて最も顕著に現れている。ビル・マーレイは日本人のディレクターに次から次へと指示を出されるのであるが、このディレクターは始終「#=%$フォーカス!%&<(記号部は日本語)」という様に片言の英語を挟んだ言葉使いをする。そして、コッポラの仕掛けたギミックはこのディレクターの台詞には英語字幕を入れないという、物語自身よりもメタな枠組み、映画そのものの性格をうまく利用したものである。
 英語圏の鑑賞者はここで物語中の人物であるビル・マーレイと同じように「#=%$フォーカス!%&<」という台詞を聞く。字幕はない。もちろん日本語は理解できない。しかし、何故かディレクターの台詞の中にはフォーカスなどの英語が随所に入っている。それだけは聞き取ることができる。一体彼は何を話しているのだ。鑑賞者は混乱する。つまりlostするわけである。
対して、日本人鑑賞者はディレクターの台詞を多少風変わりではあるが理解できるので、この場面でlostしたりはしない。
 ただし、ここでは人が物語を読むときに何が起こるのか、ということに留意しておかねばならない。私達は「物語」を読むとき、実に簡単に物語中の人物に自己を同化させる。たとえば日本人の鑑賞者が映画館に入り、ジャッキー・チェン扮する香港警察が日本の忍者を殴り飛ばすのを見るとき、彼は日本人として忍者を応援したりはしない。彼はやはり主人公であるジャッキー・チェンを応援するはずである。それは彼がジャッキー・チェンに同化している所為に他ならない。物語というものは本来、そのように国や時代、性別を超えて発動する。
 従って、『lost in translation』を見る日本人は、ここでビル・マーレイに同化しlostすることになるのである。つまり日本人は「本当はlostしていないのにlostしている」という矛盾した2つの状態を抱え込むことになる。
この相反する2つの状態を一人の人間が抱え込むという特殊な状況は生産的なものだと考えられる。Lostした人間はlostした状態しか理解することができないし、lostしていない人間はlostしていない状態しか理解することができない。しかし、lostしていてかつlostしていない人間はその両方を理解し比較することができる。つまり、「lostしている」「lostしていない」という状態をさらに外側から俯瞰することが可能となる。この人間にのみ、はじめて「ではlostとは一体どういうものなのか?」というラディカルな問いかけが許されるのである。もちろん、その位置に立つことができるのは日本人および日本語を操ることのできる外国人のみである。
 従って、私達日本人はコッポラの意図を超えて、この『lost in translation』という映画を深く読むことになるのである。

 さて、今取り上げている事象“『lost in translation』を日本人が見ること”は、より一般的には「アメリカ人が見た日本を日本人が見る」という行為に当たるが、残念ながら事はそんなに単純ではない。「アメリカ人」と言っても、それは日本を映画の題材にしようという特別なアメリカ人、日本を欲望するアメリカ人である。したがって、上記の事象は書き直される必要がある。

「日本を欲望するアメリカ人が見た日本を日本人が見る」

 まだ、これでは不十分だ。コッポラが見た現代の日本というのは既にアメリカナイズされた日本であるし、同時に映画を鑑賞する日本人は既にアメリカナイズされた日本人である。
 再び書き直せば、

「日本を欲望するアメリカ人が見たアメリカ化した日本をアメリカ化した日本人が見る」

 となる。
 これこそ、日本人が『lost in translation』を見るということの、より正確な表現である。
同様のことが『gung-wo』についても言える(ただし、『gung-wo』に出てくる日本人役の日系人は日本人の目から見れば全然日本人には見えないので、この映画では最初から日本人は観客に想定されていないとしか思えない)。『lost in translation』が2003年の作品であるのに対して、『gung-wo』は1986年と17年昔の作品であるが、もちろん1986年には日本は十分アメリカナイズされていた。それは劇中で日本を訪ねたマイケル・キートンマクドナルドでハンバーガを買うことにも象徴されている。

 それではこの「日本を欲望するアメリカ人が見たアメリカ化した日本をアメリカ化した日本人が見る」 という状況を精査してみよう。
 この文章に出てくる名詞に着目すると、出てくるのは

・�@「日本を欲望するアメリカ人」
・�A「アメリカ化した日本」
・�B「アメリカ化した日本人」

の3つである。

�@ は日本を欲望しているが、その主体はアメリカ人であり「アメリカ人が欲望してい
る」ので、これはそのまま「アメリカ人の一部」、「アメリカに内包されたもの」である。
�A の主体は一見日本に見えるが、しかしその主体は既に「アメリカ化」している。つまり、これは「アメリカに内包されたもの」である。
�B も�Aに同様である。これも「アメリカに内包されたもの」。

 要するに全てが「アメリカ」なのだ。
では、一体どこに「日本」というものが出てくる余地があるのであろうか。『lost in translation』は日本を舞台に撮られた映画ではなかったのか。そういえば多くのシーンはパーク・ハイアットの中だけで完結している。西洋式ホテルの中というのはある意味では日本ではない。
 この疑問に対する解決は『lost in translation』において何の必然性もなく「京都」という街が表れることにある。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンソンは劇中、特に理由もなく東京から京都に一人で旅をする。果たして、この「京都」とは何であろうか。その答えを私たちは次の文章から読むことができる。

《また同じように、1970年代後半から80年代にかけて、さまざまなレベルでそれまでのアメリカナイゼーションナショナリズムという二項対立的な構図ではとらえきれないような状況をみることができる。ひとつの例が、国鉄(現・JR)の70年代と80年代のキャンペーンの違いである。70年代の国鉄の代表的なキャンペーンのコピーは「ディスカバーキャンペーン」であったのに対して、80年代前半にはそれが「エキゾチックジャパン」というコピーに変わったのである。「ディスカバージャパン」とは、世に知られていない所謂「秘境の地」へ行って、土着の自然や伝統を発見するというもので、つまりそれは日本のナショナルな空間のなかに、まだ発見されていないネイティブな場所とそのなかでの「私」を再発見しようということを表明していた。ところが80年代に入り「エキゾチックジャパン」にコピーが変わると、高野山や京都の典型的な神社・寺というようないかにも日本的な風景を表わすようになった。たしかに、ヨーロッパやアメリカに対して日本が広告されるときには、エキゾチックに描写されるのは当然である。しかし、この「エキゾチックジャパン」は、日本自体をエキゾチックなものとして当人である日本人に示しているのだ。》
【 “アメリカナイゼーションの視座と文化受容〜ポップミュージックから読む日本社会〜” 竹村美紗、2006年 】(注2)

 一目瞭然である。「京都」とは「日本」のことなのだ。しかも、現実の日本がどこかに取りこぼして来た。アメリカ人と、アメリカ化した日本人の作り上げた日本像のことなのだ。コッポラにとっても、そして我々日本人にとっても東京は日本ではない。無論、かつて坂口安吾が「日本文化私観」でブルーノ・タウトを批判したように、日本人は何をしてもあくまで日本人であるから、東京はどんなにアメリカナイゼーションを被っていようと日本である。日本人は日本を発見する必要がない。
 ただ。
ここで再び竹村の文章を引いてみたい(出典同じ)。

《ここまで70年代から80年代、そして90年代前半にかけて、ポップミュージックがどのように日本で受け入れられていったのか、について考察してきた。そしてわたしはここにひとつの大きな問題を見出す。それは日本のポップには一貫して確固とした「拠り所」がない、ということである。
 先の松本(元「はっぴいえんど」の松本隆、横岩注)の発言に、“ハリウッド映画の中の「日本」を自ら演ずる滑稽さのことを考えれば、まだ自分の住む、首都高速に貫かれた街の灰色を基調色にした「日本」を見つけることの方が興味深い”というものがある。そう、彼にとって日本は「首都高速に貫かれた灰色の街」であったのだ。彼にとって日本の風景とは、特色のない無味乾燥な世界であり、一方で日本語ポップが結局「想像のアメリカ」の模倣でしかありえない、という現実を知ったとき、彼らはこのように歌った。

さよならアメリカ
さよならニッポン
バイバイ バイバイ
バイバイ バイバイ

アメリカから輸入されたポップはアメリカの現実とは無関係のものであった。一方でポップは伝統的な日本共同体からの離脱を意味していた。このために、「アメリカ」と「ニッポン」の両方に別れを告げたポップは、その後「どこにもない場所」という現実遊離したイメージの世界をさまようことになった。そして、そのようにイメージ化されたポップはどこか「バブル」と似ている。実態のないものを基盤として膨れ上がったバブル経済は、実態のないもののうえに成り立っている制度が大きく現実を動かし人間の人生を左右してしまう理不尽が、また地に足のつかない<空虚感>を生み出した。そこには伝統的な意味での「アメリカ」とか「ニッポン」によって裏打ちされた共同体=ポップは存在せず、むしろ「想像の共同体」=イメージ化されたポップ(Jポップ)が日本社会をさまよいだしたのだ。 そして今もJポップという体験を伴わない音楽のイメージが、街のあちらこちらで、ブラウン管の向こうで、日本全土の家庭ステレオ装置から、わたしたちを覆っているのである。》

 つまり、こうは描けないだろうか。

場所  :  アメリカ  ――――  東京    ――――  京都
___________________________________
コッポラ: (アメリカ) ―――― (カオス)  ―――― (日本)
音楽  : (アメリカ) ―――― (Jポップ) ―――― (ニッポン)

 竹村曰く、Jポップとは「想像の共同体」である。ならば東京とは、現代日本とは「想像の共同体」なのだ。小林紀晴(注3)は東京を見て「東京装置」と絶妙な言葉を生み出したが、それは「想像の共同体」を現実化する装置である。Jポップが日本全土を覆っているならば、それはこの日本という国全部が「東京装置」だということを意味する。ここに来て「ニッポン」は失われたのだ。少なくとも「東京装置」を上から構築されてほとんど見えなくなったのだ。
日本人は日本を発見する必要がない、などとは単なるトートロジーにすぎない。我々は現在只今の事にのみ気をやっておれば良いというわけではない。我々は時間的にも空間的にも、「自分がどこに立っているのか」ということを常に鳥瞰図的に把握しておく必要がある。
 『lost in translation』を見たあと、私はときどき日常においてlostするようになった。歩き慣れた繁華街と人々の言葉に違和感を覚える。ビル・マーレイスカーレット・ヨハンソンに同化する体験によって身に付けた「外国人旅行者」の視点にチェンジしてしまうのである。これについては多くの『lost in translation』鑑賞者から同じ症状を聞くことができる。私達は今まで見えなかった「東京装置」をくっきりと見るようになったのだ。それは私達が「東京装置」から開放されたことを意味している。これ同時に「ニッポン」の発見でもある。私たちは映画の中で「lostしていて、かつ、lostしていない」状態を体験し、次に現実の中で同様の状態を体験することにより、日本人が何をどうlostしているのかを知るのである。


・ 注1; 2つの映画は共に、決して真実の日本を描こうとしたものではなく、それぞれが意識されたデフォルメを含むことは計算に入れておく必要がある。コッポラ自身も「日本を描こうとしたわけではない。混沌のシンボルとして日本を用いたにすぎない」という意味の発言をしている。もっとも、裏を返せばこの発言は「日本は混沌のシンボルになり得るくらいに良く分からない国だ」という意味にもとれる。
・ 注3;小林紀晴、写真家、文筆家。代表作「アジアン・ジャパニーズ」など。
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