フラット。

 このあいだ久しぶりにI君と話していて、ベーシックインカムのことを考え直した。ベーシックインカムというのは「国民全員に対して、生活に要する最低限のお金をあげる」という方針です。老若男女問わず、働いていようがいまいが、全員に一人頭10万円なら10万円を毎月支給する、といった制度のことです。

 一見無茶苦茶に見えるけれど、本当はそう無茶苦茶でもありません。働かないと食べられないというのは大昔の話で、現代のテクノロジーを持ってすれば、働かないけれど食べられるというのは本来当然のことです。
 だって、もともとテクノロジーの進化は「より少しの労力で同等以上の結果を得ること」を目指して行われてきたので(本当は夢とかロマンの問題もあるけれど)、昔は10人が働かないと得る事のできなかった収穫を今や1人で十分という状況になっているはずだからです。ならば、10人の労働時間がそれぞれ10分の1になるか、あるいは一人が働いて後の人はなにもしない、などの労働形態があってもいいようなものを、どうしてそうはならないのかというと「働かざるもの食うべからず」の精神の下、全く不要な仕事を次々と生み出してはそれを忙しそうに行うからです。それが「こういう仕事もあったほうが嬉しいな」という心持ちで作り出された仕事ならまだいいけれど「こんな仕事は嫌だけど、でもしないとお金がないから」という理由だけで生まれてきたものなら、価値がないどころかはっきり言って有害です。
 仕事を作るために税金を投入して公共事業を起こすとか、そこに使われる資源やエネルギーのことを考えてみると、たぶんその税金をみんなにそのまま上げた方がましなんじゃないかと思う。

 もちろんベーシックインカムには沢山問題がある。でも、仕事は本当にそれほど重要なものなのか、とか、生きるために働いているような気分になっているけれど実はこれは何かのごっこ遊びではないのかとか、色々考える叩き台には丁度いいアイデアだと思います。

 今年はゲバラの映画もやるみたいだし、世界恐慌で資本主義の胡散臭さにもうんざりして、革命という文字が見え隠れしそうですね。念のために書いておくと、僕はノンポリですが、日本での「共産」という言葉に対するアレルギーって異常だなと思う。資本主義圏だからしかたないけれど。

 僕は、ここに告白すると、世界中の人が等しく手を取り合って生きていけたら良いなと本気では思っていないみたいです。できることなんてそれこそ沢山あるけれど、自分の生活を優先している。
 派遣村というのがなんだか、僕はその日I君に言われるまで知らなかったのですが、その派遣村というボランティアが運営する場所には500人くらいのホームレスの人が来たそうです。それに対するI君の感想は、ボランティアの人とか、回りの人とか、本気で助ける気があるなら一世帯に一人づつホームレスの人を連れ帰って、次の仕事が見つかるまで宿と食事を提供すればいいけれど、でもそんなこと絶対に誰もしない、というものでした。東京にいる莫大な数の人々のうち、たかだか500人がそういう申し出をすれば問題は解決するのだけど、誰もしない。僕だってしなかった。胸に手を当てて考えてみれば、結局そういうことなのだと思う。それに対して、罪の意識を感じるかどうかというのも繊細な問題だ。

 僕達はそのあと延々と”世界が完全にフラットな”モデルを考えていたのだけど、出来上がったのは「こんな世界で生きていてなんかいいことあるの?」というような代物だった。