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 今日は府立図書館へ行って、豆塚に関する資料をいくらか探してみることにした。先生も今日はお休みだったので、研究は夜にすることにして、昼下がりに大学を出る。

 百万遍の交差点で、婦人の警官が3人も一所に立って、「自転車」と書かれたプレートを持ち何やら道行く人に声を掛けている様子だっだけれど、僕は久しぶりにヘッドホンで音楽を聞いていたので何を言っているのか分からない。
 婦人警官を通り越して少し行くと、なんとも不運なことに道端へ財布が落ちているのを発見してしまったので、仕方なしに拾い上げる。人は馬鹿みたいに沢山通っているのに、どうして誰も拾わないのだろう。交番へ行くのは面倒だし、ちょうどいいやと、婦人警官に「あの、これそこに落ちてたんですけれど」と言って差し出すと、「ごめんなさい。それ、私達は交通の方だから受け取れないの、東一条に交番があるから、そこに持っていってくれる。ごめんね」と受け取りを拒否される。なんとなくそんな気はしていたけれど、本当に受け取ってくれないので僕は腹が立った。僕はただの市井の人間で、向こうは交通だろうがなんだろうが兎に角警察なのだ。それも3人も突っ立って自転車になにやらごにょごにょと言っているだけなのだ。一人くらい、「じゃあ、私ちょっとそれ交番に持っていくから」と受け取っても良さそうなものだ。
 だけど、彼女達は「ごめんね、本当に申し訳ないけれど」と本当に申し訳なさそうにするので仕方がなく僕が交番に届けることにした。

 とはいうものの、僕は交番がとても嫌いだ。さらに、東一条の交番には以前にも一度財布を届けたことがあるけれど、日本語が分からないのかと疑うくらいの対応だった。僕はそのとき本当に急いでいて、それを何度も口を酸っぱくして言うも牛のように緩慢な対応をされて財布を届けたことをとても後悔した。
 そこへまた財布を持っていくなど考えられない。
 僕は財布を開けて、電話番号を見つけ、電話を掛けて10分後に財布を持ち主に返した。

 それから気を取り直して図書館に行ったのですが、いくらか収穫がありました。

 まず、天明7年(1787年)に書かれた『都名所図会拾遺』にこのような記述を見つけた。

[ 大豆塚・・・御菩薩池(みぞろがいけ)の丑寅のほとりにあり。毎年節分の夜、年取の大豆諸方より打ち囃すところ。鬼神とつてこの所に収むるといひ伝う。ある社の本縁にあり。往古は塚のうえに小祠ありといひ伝う。

  枡塚・・・大豆塚の西、二町ばかり山の下にあり。伝詳らかならず。   ]

 丑寅の方角ということは北東だ。これまでにも深泥池の北東にあったという記述は2回ほど見ている。天明の時代、すでに祠がなかったということは、今発見しても単なる山でしかなくて何の痕跡もないかもしれない。
 豆塚の位置は、後にも書くように資料によって異なり、他2箇所の候補を持つが、枡塚の方はだいたい一箇所、深泥池の北西端に絞ることができそうで、豆塚=北東端、枡塚=北西端というのが最も説得力を持つように見える。
 ただ、上の記述では枡塚と豆塚の間の距離は二町=約200メートルになっているが、深泥池の東西長さは大体400メートルなので、枡塚の位置を池の北西端とした場合、豆塚の位置は池の真南となってしまう。

 さらに、寛保元年(1741年)に描かれた京都北部の地図を良く見ると、深泥池の北西端に小さく「マスツカ」と書かれているのは良いが、なんと南東端に「マメツカ」と書かれている。地図の縮尺も詳しいものではないし、精度が悪いだけかもしれない。

 地図としては、もう一つ「京都の歴史」という比較的新しい本の地図に豆塚、枡塚の文字が見られるが、2つを一緒にして池の北西に印がある。これは多分間違いで、位置としては枡塚のみを指定しているものをと考えられる。

 これ以上の地図資料を見つけることはできなかったが、これに関しては後日総合資料館を訪ねるものとする。

 他には文章の記録を2つ見つけた。

 「近畿歴覧記」(黒川道裕:1678(延宝6年)から1688年頃)
 池の南を歴、魔滅塚を東に見、地蔵堂の前へ出て、御牛飼仙納か宅を過き、二楽庵村井了設を尋ね訪ひ暫く留談す。

 「都の手ふり」(浅香山井:元禄11年10月(1698年))
 又池の東に魔滅塚というあり。これ洛陽より丑寅にあたりて鬼門なるにより、昔寛平年中に疫病はやりて洛中人おほく死したり。其時神託によりて、此所に貴船明神を勧請し、除夜に土人神輿を昇、此池をめぐりて後に炒豆を升に入、丑寅隅にこれを撒き、疫鬼を追はらう、其残りし豆(謎の漢字)に升を土中に埋む。されば悪魔滅するといふこころにて、其所を魔滅塚と名付とぞ。或は豆塚とも、又は升塚ともいふよし。檜木峠をのぼれは石碑有。幡枝村円通寺の住僧禿翁和尚の造立なり。円光院文英夫人の塔なり。