フランソア、いつもケチャップをかけすぎる。

 忙しいと見逃すものがたくさんあるかもしれない。だけど、忙しくないと見つけられないものは多分もっとたくさんあって、そしてそれらはもっと貴重なものかもしれない。大人になると見えなくなるものだってたくさんあるけれど、大人にならないと見えないものはもっとたくさんあって、そしてそれらはより深いものだ。その証拠に、大人の方が子供よりも人に優しい。僕達は歳をとり、忙しい生活を送り、そうして大切なものをたくさん見る。

 だけど、もちろんゆったりとしたときにしか見えないものや、それから子供のときにしか見えないものもそれはそれで多分大切で、結局のところ「両方大事だ」とか「バランスが大事だ」とかいうふうに当たり前の提言みたいなものが出てくることになる。
 そして、そういったことはソクラテス孔子もずっと大昔に言っていることだ、ということで、まるで長い歴史を通じて人類の生き方の指針となるような、全てにおいて適用される真実みたいな「中庸」という単語に全部が集約されてしまう。

 それはそれでいいのだろう。僕は”頭がいい”と言う意味合いでは歴史上でニュートンの右に出る人はいないと思うけれど(彼は全く新しい物理学を作っただけではなく、その物理学を組み立てるのに必要な数学まで発明してしまった)、ソクラテス孔子もとても頭が良かったのだろうと思うし、それなりの敬意を持っている。彼らの言ったことが人生だとか人間の生活のコアをついていないとは思わない。
 でも、言葉というのは一人歩きする。誰だったか忘れたけれど、哲学者か思想家で「私の思想について書かれたどの書物も信じないように。私の書いたこの本だけを信じて欲しい。他のものは全部誤解を招くだけだ」という書き出しの本を書いていた人がいた。解釈や解説というのはいうなれば誤解のことだ。実に興味深い誤解。
 上手な誤解の仕方は原書の内容を凌駕する。でも、下手な誤解の仕方は原書の内容をパテで塗りつぶしたみたいにきれいさっぱり消してしまう。何かについてきちんと論じられた解説書ですら、まずいものは元々の思想を完全に殺してしまうのに、大昔の人が言ったことで単語の形で伝わっているものがその豊穣な思想的背景を維持しているとは考えがたい。

 中庸というのは「ほどほど」とか「バランスがとれてる」とか、そういったことではないと僕は思うのです。
 思うのです、というか、そうではない、ということはどうやら常識のようですが、中庸という言葉には上記の感覚がつきまとうので、ここでは僕なりに違う仕方で中庸という概念を置き換えたいと思います。

 最初に一言で書いてしまうと、中庸というのは「バラバラ」のことなのではないか、と僕には思えます。
 バラバラというのは文字通りバラバラのことです。まとまりがなく、割れている。どっちつかずで曖昧である。従って迷いがある。

 忙しさの中でだけ見ることのできるものと、忙しくないときにだけ見ることのできるもの。
 大人にだけ見えるものと、子供にだけ見えるもの。
 こういったバラバラで一見相反することのバランスを取らないこと。バランスを取らないように努めること。
 さらには「バランスをとること1」と「バランスをとらないこと1」という相反概念の間で「バランスを取らないこと2」「バランスをとる2」。この2つ対しても「バランスをとる3」「とらない3」ことの2つに関しても「とる4」「とらない4」について「とる5」「とらない5」...
 と永遠に終わることのない二者択一不可能性の中に人類の知性というものの本質はあるのではないかと思います。ちょうど数直線の上に無限の実数が存在しているように、どの微分要素を拡大しても無限個の点が存在するように。僕達の迷いや葛藤というものはこの宇宙に広がる無限の微細構造をもった論理空間を埋め尽くす。

 話が抽象的になったのでももう少し具体的に書くと、「何かの選択を迫られたときに迷いなく判断ができる」とか「2足の草鞋を履いているひとが両方の仕事を両立させている」とか、そういったことにはあまり意味がないのではないか、ということを僕は言いたいのです。
 選択ではいつも迷いが付きまとい、2つの仕事は両立せず、でもそういった歯切れの悪さのなかでなんとか前進することができる、というのが人類のもっとも知的な在り方だと思うのです。しかも、その迷いや歯切れの悪さというのは上記のように無限の深さを持つものです。

 僕達はことあるごとに、迷いのない信念に満ちた選択、や、うまくバランスのとれた生活、など実にクリアカットなものを求めますが、それらが本質的にどのような点で僕達に有益なのかというと、それは「知的負荷が少ない」という一言に尽きます。いちいち考えたり迷ったりする必要がない。目標を一つに絞ってそれに向かって猪突猛進すること。それは最適なソリューションではなく、じつは単に楽なソリューションだというにすぎない。二兎を追うもの一兎も得ず、という諺がありますが、ウサギが捕まらなくてもウサギなんかよりずっとすごいものを、そのとき僕達はみつけるのではないかと思う。はっきりいってウサギなんかどうだっていいことだ。何故なら、僕達はウサギを捕まえる前からウサギのことを知っているから。本当に大切なものは僕達の知識や想像力の外側からやってくる。だから、僕は二兎を追うことにしようと思う。僕が探しているものはウサギではない。