波の見える遠い道路から。

 テレビを見ていると、何かのソフトウェアのCMでいきなり「あなたの脳年齢は何歳ですか」と聞いてきてびっくりした。脳年齢ってなんだろう。たぶん誰もその実態を知らない。でも、テレビで毎日日本国民の多くは「あなたの脳年齢は?」と質問されている。

 僕はこの脳年齢について何も知らないのですが、これって若い方が「良い」なのでしょうか? 普通人間って年をとるにしたがって頭がよくなると思うのだけど、ここで問題にされているのは単に記憶力とか計算が速いとか、そんなどうでもいいようなことばかりなんだと思う。脳年齢が80歳の優れた料理人と、脳年齢が20歳の何の取り柄もない人と、どっちが頭が「良い」なのかは一目瞭然だと思う。頭なんて使い方の問題で、そのもののクオリティを高めることばかり考えていても仕方ない。脳の訓練というのは、英単語を覚えなくては英語の試験をパスできないのに、英単語を覚えることをしないで英単語の覚え方の研究に精を出すような後退の仕方に似ている。脳を鍛えるのがブームらしいけれど、一昨日の晩御飯を思い出してそれでどうだというのだろう。そんなことよりも何に頭を使うのかが問題で、そういった本当に重大な問題から目をそらすためにとりあえず一昨日の晩御飯を思い出せるようになって喜んでみる、ということにしかなっていないように見える。

 北朝鮮がまたミサイルを撃った。
 夏になると戦争のことを考える。小学校にも中学校にも夏休み中に登校日というのがあって、それは半分は戦争学習の為だった。夏休みに蝉時雨の中、汗を流して学校に行き、そこで戦争の話を聞くというのは、暑さと苦しさが相俟って独特のムードを生み出した。
 小学生の時は演劇部の戦争に関する演劇を見た。演劇部の顧問は年を召した先生で、「ぬちどうたから」という言葉を生徒に吹き込んで回っていた。「ぬちどうたから」というのは沖縄の方言で「命は宝」という意味らしい。

 中学では変なスライドを作った。たしか中学2年のときに、僕の学年は6クラスあったのですが、各クラスに大体6、7個の班があって、一つの班に一枚のシーンを割り当てて、合計で40枚くらいのスライドを作った。それから各クラスから3,4人を声優として選んで、音や声を各シーンに入れていく。僕はその声優に入っていて。誰かの弟みたいな役とアメリカ人兵士の役をやったと思う。僕たちは放送室に篭って効果音や台詞を入れて、その作業自体はほとんど戦争には何の関係もないものになっていった。完成したスライドと音声は、登校日かいつかに全校生徒の前で披露されたのだけど、タッチのばらばらな40枚の素人が描いた絵と、滅茶苦茶な音声の入れ方で相当酷い物だったのではないかと思う。

 僕はこの作業をしていて、自分が今取り組んでいるのが一体どういった種類のことなのかを時々自問した。僕達が題材としていたのは”戦争”という大きな惨劇の一部だったけれど、放送室のどこにも惨劇の欠片すらなかった。僕達はただ、ここにこの音を入れたら面白いのではないかとか話合ったり、アメリカ兵の口真似をして笑い転げるだとか、好きな子が来るだとかこないだとか思い悩んだり、そういった至ってノーマルな中学生が楽しみのために行うようなことをしていただけだった。どんな種類のデモであってもいいけれど、ニュースを見ているとデモ隊の持っている看板や旗の凝ったデザインに目が行って仕方ない。ときどきは笑いながら歩いている人もいる。看板に色を塗るとき、きっと楽しかったんだろうなと思う。

 僕は何も批判を書いているわけではなくて、人間というのはそういった種類の生き物なのだということを再認識した、ということを書いています。苦しい状況下に置かれた人間が、看板を作るときにある程度の楽しみを持ってその作業を行う、というのはとても希望という言葉に近い。

 戦争になんとなく意識が行っていて、図書館で吉本隆明さんの「私の戦争論」という本を借りた。たまたま目に付いたから借りたのだけど、そもそも僕は吉本隆明という人をあまり知らなくて、でも僕の好きな先生が「吉本隆明は良い」と言っていたのできっと信頼できる批評家なのだろう、と思っている。だけど、この本を読んでいると「実感として、」という言い回しが良く出てきて、まだ最初の方を読んだだけでも少しうんざりしています。

 戦争のことは、考えないわけにはいかない。でも、何が本当で何が嘘なのかを知ることができなくて、僕たちは考える根拠を持つことに苦労する。情報は誰かが発信した以上、何らかのバイアスが掛かっている。たとえば「きけわだつみのこえ」という有名な遺書集はもともとインテリのものだけを集めて、さらに編集段階で本当に勇ましく出撃した兵士のものが省かれている。これはきれいな感傷を引く遺書で読む者の心に悲しみを呼ぶ為の編集方針だとしか思えない。
 僕たちは戦争のことを考えないわけにはいかないけれど、かといって人生を真実の追究にささげることはできない。だから、研究者にはどうしても期待をしてしまう。

 この日は図書館で村上龍さんの「69」英語版も借りた。
 「69」はとても好きな作品で、小説も映画も2回以上読んだり見たりしている。ついこの間から、映画の「69」をまた見たいと思っていて、それから何か英語の小説も読みたいと思っていて、そんなときに英語版の「69」を見つけたなら借りる他ない。