ウサギとニンジンと風。

 もう少し古い話になるのかもしれないけれど、日銀の福井総裁について、その進退はどうであるべきか、とジャーナリストに聞かれた政治家達、それから評論家達が、「日銀の独立性があるので、それは福井総裁、日銀の判断に委ねるしかない」という風に言葉を濁しているのを聞いてとても歯痒い思いをした。福井総裁がもしも本当に日銀に相応しくない行為をとったのなら、それが誰の目にも明らかならば、べつに余所の組織の人間が介入したって良いのではないかと思う。その「独立性」というものを絶対視する理由が分からない。それは単に便宜的に引かれた一本の線に過ぎない筈だ。

 その討論番組では「司法制度の不可思議な点」に関しても議論していて、ある政治家が「そうなんですよ、司法にもどう見てもおかしな所があるけれど、それを我々が指摘してああだこうだ言うと、すぐにそれは行政が司法に介入したって言われてしまうんですよ。三権分立になってますから」というようなことを言って、どうして司法の欠陥を国会は放っておくのかという問いから逃げていたけれど、こんなに変な答え方はない。三権分立が、お互いに文句を言わないでそれぞれやりたい放題にしましょう、というのではなくて、暴走しないようにお互いが監視し合う為にあることは小学校で習う。
 どちらにしても、この「線」は一体なんなのだろう? 政府と日銀、あるいは行政と司法の間に存在するライン。それはときどき乗り越えられても構わないのではないだろうか。
 この下らないラインを重視することで、僕たちは様々なものを犠牲にする。ひどい政治家が独裁を行って国民が多数餓死する、というような国にも「他国の内政に関与することはその国の主権を侵害することになる」という理由で干渉することは禁止される。そのような理由で人がバタバタと死んでいくのを黙って眺めているなんてどこかが狂っている。

 ラインを守ることは、通常時機能を発揮する有効なメソッドだ。しかし、ラインを超える必要がある場合は必ず存在する。例えば通学路を決めて、そこを必ず子供が通る、というのは児童の安全確保に有効かもしれないが、その通学路にサリンが撒かれたならば他の道を通るのが当然だ。隣りの家の夫婦喧嘩や子供を叱る音が異常に激しい場合は、余所の家に口出しはしない、なんて言っていてはならないし、警察を呼ぶだとか何らかの手を打たなくてはいけない。未然に防がれた事件事故は、それが起こらなかったことから防止の為に取った行動の意味が分かり難い。僕がこんなことをしなくても、どうせ何も起こらなかったのではないか、と考えてしまう。でも、起こってからでは遅いのだ。どうせ何も起こらなかったかもしれない、と思いながら成される行動が本当はとても大切で、僕は笑われてもそれを心がけたいと思う。
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 今、話題を変える為にラインを一本引いてしまいましたが、そのラインを引いていて、僕は先日立ち読みした松尾スズキさんの日記を思い出した。それはウェブに書かれていた日記を本にして売り出したもので、松尾さんは「ウェブの文章というのは一行スペースを入れて簡単にポンポンと話題を変えることができるから便利だ。もちろんそれってとても安い文章だってことだけど。お金貰う原稿でこんなこと絶対にしない」ということを書いていた。まったくその通りで、普通文章というのは頭から尻尾までずーっと繋がっているものだ。DJが曲と曲を繋げるとき、最も簡単なのはカットインという手法で、それは単に前の曲を終わらせると同時に次の曲を始める、というもので、でもこんな子供みたいな技術を使うDJは少ない、普通のDJはロングミックスといって前の曲に被せるように次の曲を始める。ロングミックスでは前の曲と次の曲のBPMを合わせたり、フィルターを通してベースをカットしたりと曲に応じた様々なことを行う必要があるのでそれなりの技術が要求される。でも、そうやって上手に繋がれた音楽は、継ぎ目の見えない滑らかなもので、音楽を聴く人々は気持ちよく音楽を聴き続けることができる。文章だって同じ事だ、話題を変えたいなら本当は徐々に話をそっちの方向へ持って行かなくてはならない。滑らかに次の話題にシフトしなくてはならない。でも、日々の日記でそのようなことを行うのは随分と難しい。