サーファーガールと幻の犬。

 たびたび昔の作文を載せるのは抵抗がありますが、僕は今から出掛ける必要があって、今日はもうパソコンを触れない可能性が高いので、その前に無理やりな更新をします。これも、もう2年くらい前の作文です。
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 中学校に上がった時、新しい国語辞典を買ってもらった。岩波の白い国語辞典
今でも僕はその辞典を部屋に置いていて、時々はそれを引く。裏側には汚い字で
自分の名前が書いてあるし、一時期は鍋敷として利用していたので何かの食べ物
でできた染みが付いている。

 その国語辞典を見て、僕は少しだけ不安になった。

 「僕たちは毎日、ほとんどこの小さな(本としてはまあ大きいけれど)本に書か
 れた言葉だけを使って話をしているのだ」

 一体何語収録されているのか知らないけれど、一冊の国語辞典に書き切れる
言葉なんて高々知れている。それらの順列組み合わせなんて、この複雑な僕らの
人生と人間関係と感情を表現するにはあまりにも貧弱に見えた。
 英語を勉強しているともっと酷い不安に駆られる、こんな簡単な言語で一体何
が伝わるというのだろうか。

 当たり前だけど、言語というものは人間に内包されるものであって人間を内包
するものではない。だから言葉で僕らのコミュニケーションを完璧にするなんて
不可能な話だ。

 僕の大学にはインターフェイスの研究室があって、そこでは手話の翻訳システ
ムの研究が行われている。僕はそこの学生ではないし詳しくは分からないけれど
手話を翻訳する時は話者の手の動きに注目していても駄目らしい。大切なのは
話者の表情やなんかのノンバーバルな情報まできちんと読み取ることだという。

 それはまあ手話ではない会話でだって同じことで、すこし考えてみればよく
分かる。ウェブやメールの発達で、ノンバーバルな情報が削ぎ落とされた文字
列のみによるコミュニケーションが増えると、人は顔文字という特別な記号を
生み出してそこにノンバーバルな情報を少しでも乗せようとした。

 言葉というのは、この世界を表現するための試みではあるものの、実はこの
世界とどこかでしっかり繋がっているというわけではない。
 言葉は言葉だけで閉じた系を成していて、それに尚悪いことにその系は完全
ではない。完全でないどころかものすごく不完全で、言葉という系に含まれる
任意の要素を他の要素で表現することが不可能であるというどうしようもない
ぐちゃぐちゃさ。
 例えば「ニンジンは野菜です」というのはニンジンの完全な説明にはなって
いない。野菜はニンジン以外にもたくさんあるし、ニンジン=野菜ではないか
ら。「ニンジンは赤いです」も説明にならないし、組み合わせて「ニンジンは
赤い野菜です」でも足りない。「ニンジンは赤い根菜に属する野菜です」でも
足りない。
 ここで、岩波国語辞典題4版を引いてみると

 にんじん(人参)?せり科の越年生の野菜。根は普通は赤く、食用になる。
         ?「ちょうせんにんじん」の略。

 と書いてある。
 でもこれがイコールでニンジンではない。いくら言葉を尽くしたところで
ニンジンを他の言葉を用いて本質的に表すことは不可能なのだ。結局、我々
に言えるのは「ニンジンとはニンジンである」ということに限られる。
 もちろん、これでは話にならない。

 アリス  「お母さん、ニンジンって何?」

 母    「野菜ですよ」

 アリス  「ああ、大根とかキャベツとか」

 母    「違います。お馬さんが食べるやつですよ」

 アリス  「ああ、そこらに生えてる草」

 母    「違います。お馬さんが好きな野菜があるんです。
       赤いのよ」

 アリス  「そうなんだ。赤いお馬さんが好きな野菜がニンジ
       ンなのね。また一つ賢くなったかしら」

 ―アリス、舞台中央できらめきのポーズ。
 ―ステッキおじさん、右袖から出て来てアリスに話し掛ける。

 ステッキ 「もしもしお嬢さん、ニンジンとはセリ科の野菜
       ですよ。色はオレンジです」

 アリス  「ええっ! でも、お母さんが赤いと」

 ステッキ 「いえ、あれは断じてオレンジなのです。それに
       私はもう長年馬の世話をしていますが、3年前
       の秋にうまれたクッキーはニンジンを食べませ
       んでした」

 アリス  「そんな! お母さん、私を騙したのね。ひどい。
       クソババア!!!」

 ―アリス、母を睨み付ける(2分ためる)

 母    「いえいえ、何をいうのですか。そんな下品な言葉
       を使うものではありません。ニンジンが嫌いな馬
       だってときどきはいるかもしれないけれど、でも
       だいたいは好きなのよ。それに色は赤とオレンジ
       の間みたいな色だからどっちとも言えるのよ。も
       う、あなた余計なこと言わないでくださいます」

 ―ステッキおじさん、ステッキを30回回して帽子を脱ぐ。
  そして、また被る。

 ステッキ 「余計なことではありません。子供たちに、私はこ
       の世界の真実を教えたいのです。よその子供に
       だって、目をつむるわけにはいきません。
       お嬢ちゃん。ニンジンには緑の葉っぱも生えて
       いるんだよ」

 アリス  「そんなばかな。ニンジンは赤ではないの?」

 母    「それは葉っぱは緑ですわ」

 アリス  「ニンジンって、セリ科の野菜で赤でオレンジで緑の
       葉っぱが生えていて馬が好んで食べて好んで食べな
       い馬もいるものなのね」

 ステッキ 「いえいえ、それだけではありません。ニンジンには
       カロチノイドという栄養がたくさん入っています」

 アリス  「そんな。お母様は何も教えて下さらなかったわ。
       お母様。お母様はなんて酷い人なの、私を騙して。
       もう顔も見たくない」

 ―アリス、走って左袖にはける
 ―舞台暗転。
 ―アリスが一人で森の中を歩いていると座禅を組んだ老人がいる

 アリス 「ああ、お母様はなんて悪いのでしょう。私を騙して、
      本当のことを何も言って下さらない」

 賢者  「お嬢ちゃん、お母さんのことを悪くいってはならん」

 アリス 「でもお母さんは私にニンジンがなにか教えてくれなか
      ったの。騙したのよ」

 賢者  「お嬢ちゃん、この世界には大人にならないと分からない
      ことがたくさんある。ニンジンが何かを説明するのは
      とても難しいことなんじゃよ」

 アリス 「そう。私には簡単に思えますわ。賢者様にも難しい
      のですか? 賢者様が教えて下さい」

 賢者  「ニンジンとはニンジンである。これが真理じゃ。他は
      まやかしにすぎん」
 
 アリス 「賢者様からかってるんですか」

 賢者  「いや、言葉というのは空虚なもので、こうとしか言いよ
      うがないのじゃよ。ニンジンとはニンジンである」

 ―アリス、悟る。

 アリス 「ニンジンとはニンジンです」

 ―母、アリスに追いつく

 母   「もう、アリス、心配しましたよ。ほら、本物のニ
      ンジンをピーターさんに貰ってきました。ニンジ
      ンというのは」

 ―アリス、母がニンジンを取り出そうとするのを遮って言う

 アリス 「いえ、いいのお母様。私、もうニンジンがなにか
      分かりましたわ。ニンジンとはニンジンである」

 母   「それでは答えになっていないわ、アリス、これを
      見なさい」

 アリス 「ニンジンとはニンジンである。アリスとはアリス
      である。母とは母である。森とは森である。宇宙
      とは宇宙である。アハハ。私わかっちゃった!」

 ―アリス、おおはしゃぎ。
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