シャーベット。

 友達のミクシィの日記に「デス・クロック」なるウェブサイトが紹介されていた。生年月日や性別なんかを入力すると、その人が何年何月何日に死ぬか、というのが出力されるみたいです。わお。なんて恐ろしい。

 そのサイトはものすごく混みあっているとのことでしたが、僕は試しません。
 もちろん、結果を信じるからではないですが、少なくともなんらかの影響があるような気がします。

 いついつにあなたは死にます。
 というのはとても強烈な言葉ですよね。こういうのは本物の呪文だし、それは予測としてではなく逆にその人の命の時間を変えてしまう可能性があるんじゃないかと思うのです。
 僕はそれがコンピュータの単純な計算がはじき出す日付であっても、宣言されてしまえば”その日”を意識しないわけにはいかない。

 人類がいつ頃から「自由」というものを求めるようになったのか、僕は定かには知りませんが、「自由がほしい」というイデオロギーはきっと何かのごまかしのような気がします。
 なんというか、多くの人々は自由になりたいよりもむしろ「コントロールされたい」のではないかと思うのです。自分で何をするのかを決定して、それを実行する、というのは、決められたことを黙々とこなす、よりもずっと高いエネルギーを必要として、僕にはそんなに誰も彼もが高エネルギーの不安定状態になりたがるとは思えないのです。

 もちろん、程度、は問題です。何も僕はみんなが実は囚人みたいな生活をしたがっているのだ、なんてことを言うつもりではありません。
 ただ、自由になりたい、という思想がスタンダードになっているのはある意味では特異的な状況です。毎日のルーティンをこなしていれば生きていけて、それが最上の幸福である、というイデオロギーが支配的だった時代や地域というのは存在します。僕たちはあくまで「自由主義の思想が支配的な時代」を生きているに過ぎません。

 そして「自由」を求めることと「支配」を求めることはほとんど等価です。

 なぜなら、「自由主義」というのは「自由」を求めることではなく、「自由を求めることを求める」ダイナミックなものだからであり、当然「自由を求めることを求める」為には「不自由(支配)」というものが必要となるからです。

 だから、自由主義者は不自由を作り出す必要があります。ちょうど犯罪はなくしたいけれど世界中から犯罪がなくなっては警察が存在意義を失い、病気は治したいけれど世界中から病気がなくなっては医者の存在価値がなくなってしまうように、自由主義者というのは構造的に背理を抱え込んでいます。自由になりたいけれど、みんなが自由になってしまっては自由主義は滅びる。

 これってちょっと資本主義に似ていますよね。
 資本主義というのは「儲ける」ことに意味があるのではなく、「儲けが増える」ことに意味がある世界です。毎年コンスタントに5億の年収がある、というのではその会社は滅びてしまいます。それよりも最初は赤字、でも次の年にはどうにか黒字になって、次は1000万、1億、10億...、と収益が増加することが資本主義の中では最良のスタンスです。競争をしているので、いつも同じでは他社にやられてしまいます。
 当然、どこかの会社が儲けを増加させ続ける、には、他の人々がどんどんと損をする、ことが必要となります。もしもある一つの会社が成長し続けて、世界中の人々がその会社の社員である、ということになってはその会社は搾取する対象がないので滅びるしかない。それで、資本主義の国々というのはこぞって新しい地域を資本主義化したり、あるいは戦争をしたりするわけです。戦争というのはお金がないとできなくて、結局は誰かのお金儲けの方法です。信じられないくらいひどいことに。

 少し話がそれました。
 僕は「デス・クロック」もそうだけど、人々が何か自分のことについて断言されたがること、分析されたがることの意味を考えようと思っていましたが、また時間のあるときに書くことにします。「自己分析」というのは宗教の教義とたぶんほとんど同じ機能を持っているのだと思う。