黄色いキノコを食べてから座るコアラ。

 今日は昼からWとフンデルトヴァッサー展に行ってきました。

 天気はもう尽く春めいていて、浮かれ顔の陽気な人々が街を歩く。交番の前で立っている二人のお巡りさんの前を、僕らは二人乗りの自転車で浮かれ話をしながらスローペースで通りがかったけれど、彼らはほとんど僕達が通り過ぎるまでこちらに注意を払わなかった。春には誰だって頭がぼんやりとするのだ。

 僕は今までフンデルトヴァッサーをそんなに好きだというわけでもなかったし、彼の絵を注意して見た事がなかった。でも、今日の展覧会で一つ発見したことがある。それは絵そのものにはあまり関係がないのですが、彼の絵のタイトルがときどきとても素敵だということです。
 僕は美術館を訪ねてもあまりキャプションを読むことはありません。特に気になったいくつかに関してだけ、もしくは目に入ったものだけ読みます。今日最初に目に留まったのは「インドの森に入るダライ・ラマ」というへんてこなタイトルでした。これは特になんてことのないタイトルです。でも、僕はなんとなく「この人は一体どんなタイトルを着けるのだろう」と気になって、他のキャプションも眺めてみたわけです。

 感動した、と言っておきながら、覚えていない、というのは実に無責任なことですが、でも、タイトルはあまり覚えていません。「他の男に心変わりした恋人を待つのは辛い」と生々しいものから、「てっぺんに木を植えた箱に入っている男」のようにすこしシュールなものまで、タイトルは実にチャーミングで、僕はこの人の感性はタイトルにも強烈に表れていると思い、もう一度タイトルだけ読んで会場を回りました。

 彼のドキュメンタリーも上映されていて、僕はそこに映し出されたフンデルトヴァッサーという人物をとても凡庸な人だと思った。もちろん、これは貶しでも誉めでもなんでもありません。絵を描く過程や、物事の進め方、考え方、そういったものは天才と呼ばれる人々だって結構普通なものです。
 そのドキュメンタリーには格好をつけたナレーションが入っていて、「絵を描く時のイマジネーションは思考よりももっと遠くからやってくるのだ。考えて描くのではない」と言っているのですが、作業風景を映したシーンでは「えーっと、この車を、うーん、そうか、渦と車をつなげればいいんだ。試してみよう、今までこんなことは考え付かなかった。そうすると、渦に車が捉えられるようにもできる」といかにもノーマルな試行錯誤が成されている。

 僕は今、吉本隆明さんの「カール・マルクス」というそのままマルクスのことを論じた本を読んでいるのですが、マルクス云々よりも、その中でたった一文、

「真に新しいことが閃くなんてことは起こらないものだ。全ては試行錯誤の積み重ね」

 というような意味の場所があって、なんとなく救われた気分になった。

 閑話休題
 近代美術館を出て、図書館に本を返して、それから僕たちはWが友達に教わったという、格安の変な物件ばかりを扱う不動産、へ行ってみたけれど、別段変わった不動産でもなかった。僕はビルが欲しいし、Wはアトリエが欲しい。

 そのあと、「エアー」「さらさ鴨川」とカフェを梯子したり、寝袋を買いに行ったりして、Wはアルバイトに行き、僕は研究室に戻った。

_________________________

 しつこいようですが、意識の話の続きも書きます。

 前回はクオリアの話をしましたが、意識と言うのはクオリアの集合だと考えることができます。

 それでは、人工知能クオリアを、ひいては意識を持ち得るのか?
 また、人はどのようにしてそのチェックを行うのか?

 つまり、ロボットに意識があるのかないのかを、僕たちはどうやってテストすれば良いのだろうか、ということです。これは何も「ロボット」に限った話ではありません。

 僕たちは自分以外の人間に意識があるのだということをどうすればチェックできるのか?

 というのでも同じです。
 そんなのチェックできるわけないですよね。その人に(あるいはそのロボットに)、意識が宿っているのかどうかなんて「本人」にしか絶対に分かりません。なぜならその意識の存在を「感じる」ことができるのは「本人」以外には有り得ないからです。
 科学技術が進歩すれば、僕たちは「他人」の「感覚」を「感じる」ことができるようになるかもしれません(たとえば八谷和彦さんの視覚交換マシンなど)。しかし、「他人」の「意識」を「感じる」ことはできません。もしもそれが可能だというのならば、そのとき「他人」はすでに「他人」ではなくて「本人」であるということにすぎません。

 それにも関わらず、僕達が普段、他人に宿る意識を仮定して生活しているのは、他人に「意識があるように見える」からです。
 ならば、「意識があるように見える」人工知能には意識があることにしよう、というのがずっと前に名前だけだしたチューリング・テストというテストです。
 チューリング・テストでは人と人工知能がチャットをして、その結果普通の人間と話しているのと同じに感じられる、つまり「意識があるように見える」ならば意識があるかもしれないと言える、とひどく曖昧な物言いをしていますが、本当のところは確かめようがなくて、意識の存在は「ありそう」「なさそう」としかいうことができません。

 さて、話はやっと佳境に差し掛かってきました。
 でも、時間的な問題で、今日はもう少ししか書くことができません。
 次の回の枕を振って終わろうと思います。

 科学者は脳の働きを「神経細胞の繋がり」という考え方で説明しようとしてきました。反復練習や経験によって、「脳細胞の結びつきが変わる」だとか、「シナプスが云々」って良く言いますよね。
 ところが何年か前に「単細胞の」アメーバが記憶能力を持つことが実験的に示されました。単細胞ならば繋がりも結びつきも何もあったものではない。
 このことは、脳細胞おのおのに更に高次の機能があることを示唆しています。

広告を非表示にする