TV.

 NHKが受信料を法的手段に訴えて取る、という話がニュースで流れていた。

 僕はNHKの受信料を払っていない。
 いつも「すみません、払うつもりないんです、法的拘束力ないですよね」と言ってNHKの人には帰ってもらっている。
 でも、それももう通用しなくなるんだろうか。

 僕はNHKの番組が結構好きだし、民放ではこんな番組ありえないな、絶対にスポンサーつかないだろう、この番組じゃ、というようなニッチな面白い番組もたくさん流れていると思う。

 だけど、僕はそれらを多分「無料」だから見ている。
 「新日曜美術館」が見たいからと言って、月にいくらかのお金を払ってまで見るのかというと、多分そこまでしては見ない。

 僕たちは通常、何か「欲しい」ものがあって、その「価値」があると思ったものに対して、その対価を支払う。そして、とても単純なことに、日本人の多くはNHKという存在にその価値を見出してはいないのだ。それなら潰れる他ないんじゃないかと思う。そこを無理矢理お金を取りたてて営業していくなんて資本主義社会では考えられない。

 それから民放について、これも、もしもスポンサーを降ろして全て有料コンテンツに変えたらどうなるだろうかと考えてみた。
 僕たちは、「報道ステーション」を見る為にいくらのお金を払うだろうか。月9のドラマを見る為にいくらのお金を払うだろうか。

 僕はもともとテレビをあまり見ないし、そんなにテレビ番組で好きなものもないので、多分テレビの全コンテンツが有料化されたならば、まったくテレビを見なくなると思う。

 そして、これは多分僕だけじゃないだろうと思う。
 多くの人々が「お金を払ってまで見たくはない」という立場を取り、少なくとも見る番組を大幅に減らすのではないだろうか。

 そのとき、テレビの価値というものが数字としてはじき出される。
 金額という数字。
 テレビ番組の価値は視聴率で測れるものではない。

 たとえば、そんなには気に入らないけれど、でも安かったから買ってしまった服を着ているとき、僕らはそんなに気分良く過ごしたりはしない。安物買いの銭失い、という言葉すら頭をよぎり、やっぱり欲しいものをちゃんと買おうと思う。
 テレビは、激安の0円で、安さに釣られて、もしかしたら多くの時間を「大して見たくもない」番組に費やしている可能性を僕たちは否定できない。一度、この番組にいくらなら払うか考えてみるのも面白いなと思った。「10円」「100円」だったら、そんな価値しかないと思っているものに1時間だとか2時間という時間を当てていることになる。
 それが本当に楽しいことだとは僕には思えない。

 僕は本当に楽しいと思うことにはそれなりの対価を払う用意がある。
 今回、NHKの問題が暴露したのは、単にNHKの話に留まらず、ひいてはテレビというマスなメディアに本当はどれだけの価値があるのか、またはないのかということだと思う。