半島から見た海のヨット。

 いつも選ぶべき話題を間違える。
 電車を降りたあと、なんであんな話をしたのだろうかと後悔した。
 他に話すべきことはいくらでもあった。

 今日は松尾でバーベキューをしました。
 待ち合わせ場所に向かう電車の中で、僕は山折哲夫の「死の民俗学」という本を読んでいたのですが、冒頭でイギリスの歴史家ジョン・マクマナーズの「死と啓蒙」から文章が引かれていた。

 「死者を塔に吊るして猛禽にゆだねるペルシアのゾロアスター教徒、死者の顔に絵の具を塗るアメリカ・インディアン、自分の小屋に骸骨を吊るしておくブラジル人、王の皮膚に砂を詰めるヴァージニアの土着民、先祖の骨を粉にして酒に入れるオリノコ川流域の未開人、壷に死者の灰をうやうやしく保存する日本人、さらに、死体を切り刻んで陶器の鉢に貯蔵しておくバレアレス諸島の未開人たち・・・」

 こうして、さまざまな死に関する変わった習慣を挙げ連ねて、その中に日本の骨壷のことを書かれるととても奇妙な気分になる。
 僕だって何度か骨を拾ったことがあるし、骨壷を抱えたこともある。もちろん、それは日本人の感覚から言えば死者に向かい合う極ありふれた手段の一つだ。でも、死者の骨を保存するというのは確かに自然なことだとは言い難い。控えめに言ってもずいぶん変わっていると思う。昨日までそうは思わなかったけれど。

 やっぱり、自分のことを外から見るという行為はとても難しい。

 こういうことを話しても良かったのだ。明るい話題ではないけれど、それでもまだましというものだ。電車は明るい五月の午後を走り抜けていた。電車には比較的たくさんの人々が乗っていた。休日の明るい午後に電車がガラガラになったりはしない。僕たちはたぶんバーベキューの煙にいぶされて、バーベキューの匂いを車内に持ち込んだのだろうけれど、さんざんに煙を吸い込んだ僕らにそれは分からない。

 硬すぎるプレッツェルとジャスミンティー。
 甘すぎるチョコレートとゾウの群れ。
 いい加減なピンクで塗りたくった彼の絵をどうか分析しないで欲しい。