この世界の無限の計算量

 よく覚えていないので間違えているかもしれないけれど、たぶん大江健三郎がどこかに子供時代の思い出を書いていた。学校でドキュメンタリー映画みたいなものを見る機会があって、その中に樹の枝や葉がアップで撮られたシーンがあった。画面の中で枝や葉が大きく揺れている。その揺れ方がわざとらしく思えて「そんなに揺れているわけないだろう」「撮影用に揺らしたりしてるんだろう」と疑いながら後で樹を見に行ったら、風もほとんどないのに近くで見ると樹の葉や枝は確かに揺れ動いていた。
 風もないときにはじっとしているものだと思っていた木の葉が、実はほとんどずっと小さく動き続けていたことに衝撃を受けて世界の見方が変わったらしい。

 世界は、僕たちが勝手に単純化して整理して理解しているようには簡単ではなく、名もない細部の微細な集合で組み立てられている。高校生の時に部屋の窓から数百メートル向こうの山肌を眺めていて、そこに強風の微かなざわめきが見えた気がしたとき、見える限り全ての木々の動きが葉っぱの先端に至るまで全部物理法則の通りに動いているという事実に僕は愕然とした。無論それは山肌の木々に限ったことではなかった。目には見えない空気の動きも、そこを漂う微細な粒子も、飛び交う電磁波も、服にできたシワの形も、人が見ていようがいまいが、全てが法則の通りに動いていて、その圧倒的な計算量に頭がクラクラとした。しかも古典論的な考え方では、あるいは機械論的世界観ではこれらのスーパー複雑な現象の全てが宇宙の始まった瞬間から決まっていたことだ。

 この瞬間から世界の見え方が変わった。
 以後僕は計算量というものを意識して生きている。
 なぜ急に「計算」が出てくるのか、と思われるかもしれないので、計算について説明しておきたい。
 それには、きっとコンピュータを持ち出すのが一番いい方法だ。コンピュータが計算をしていることには誰も文句ないと思う。そしてコンピュータはかつて電子計算機と呼ばれていた。わざわざ電子と言うからには「電子でない」コンピュータもあるのかというと、ある。あるというか、原理的には(つまり実用性を無視すれば)ほとんど何を使ってでもコンピュータは作れるし、実際にアイスのスティックが組み合わさったコンピュータもあれば、DNAで作ったコンピュータもある。

 僕たちはいわゆる情報化社会だとかいう社会を生きていて、「情報」というとすっかり漠然とした概念だと思いがちだが、情報というのは絶対に物理的実体を伴っている。ニューヨークにメールを送ったとき、それはニューヨークにメールの中身という情報が伝わったということだけど、それはとりもなおさず「物理的実体の変化がニューヨークに届いた」ということだ。具体的にはラップトップだかスマートフォンだかは電波で通信しているが、電波を送信するのはアンテナ中の電子を振動させるという物理的な操作で、電子が振動すると周囲の電場が変化して磁場が発生する。磁場の発生は即座に電場を発生させて、それによってまた磁場ができる。この繰り返しが電磁波で、つまりここではWiFiだ。WiFiはルータに到達してアンテナの電子の運動を変化させる。その変化はルータ内部であくまで物理的な電磁気学的変化を経過したのち、メタルのケーブルの中の電子の動きだか光ファイバーの中の電磁波だかになりそのまま地球の何分の一だか回ったりデータベースを書き換えたりして、またサーバやルータの中を通って電磁波として相手のラップトップに飛んでいき、ラップトップに内蔵されたアンテナの電子を特定の周波数で動かして電流に変換し、その電流が信号処理されてディスプレーに的確に電流が流れて各液晶にかかる電圧が変化して偏光が代わりピクセルの色が変わってその集合が文字列を形成して誰かに読まれる。

 計算というのは、大雑把に「ルールの通りに物事が動いていく」ということを指している。風で木の枝が撓むのは、木の枝と空気が「計算」をしているからだ。言っていることがわかりにくければコンピュータシミュレーションを思い浮かべてもらうといい。コンピュータを使って、風が吹いたときにどのように木が動くかはシミュレーションすることができる。コンピュータで計算することができる。枝のある領域の弾性、形状、質量、空気の粘性、速さ、考えつく限りのパラメータを正確に入れていけば、コンピュータ上で木の動きが真似できる。でもこれはあくまで真似にすぎないし、本当の動きにはならない。本当の木の動きを正確に再現するためには、ほとんど無限個の情報をインプットしてやらなくてはならない。そして、その木についての全ての情報という言葉が意味するのは、「その木そのもの」だ。だから、当たり前だけど、目の前に一本の木が生えていて、その木が風に吹かれた時の振る舞いをなるべく正確にシミュレーションしたければ、その究極は「その木そのもの」に風を当てて観察するということになる。つまり実験ということになる。
 スケールを一気に拡大してみよう。
 一本の木をコンピュータシミュレーションするのではなく、この宇宙そのものをシミュレーションするのであればどうだろうか。
 
 以上のような説明では、「僕達の宇宙はコンピュータシミュレーションなのか」というような誤解を招きそうなので、別の側面から話をしたい。
 僕達の宇宙がコンピュータシミュレーションだというのは、それはそれで1つの解釈ではあると思うけれど、所謂僕達のコンピュータについての説明が必要だ。
 コンピュータの中は普段意識しないブラックボックスみたいになっている。だから「CPUが何か計算している」と漠然と思って終わりになる。別に日常でパソコンを使うにはそれで何の不便も感じない。
 忘れてはならないのは、「コンピュータはこの宇宙の中にあって、この宇宙の中にあるものは物理学の法則に従う」ということだ。CPUやマザーボードを流れる電流は完全に物理学の通りに動いている。傾いたテーブルにボールを置いたら転がるのと同じことだ。これは物凄く不正確な例だが、ここに1つのビンがあるとする。ビンの中に入っているボールの数が「計算結果」だ。ビンの口にはジョウゴが付いている。足したい数字があれば、このジョウゴの端っこにその数分のボールを置いてやればいい。そうするとボールはジョウゴの斜面を下ってビンの中に「足される」。バカみたいだけど、コンピュータの中で起きていることは電気的にやっているこういう物理的なことだ。
 だからコンピュータの中での計算は普通の物理現象の利用で、何もこの世界の外側にはみ出したものではない。
 コンピュータと計算と現実世界を別物だと扱ってはならない。全部同じ次元のものだ。
 
 だから、物理法則の通りに何かが進行していることを、計算だと呼んでも構わない。
 今座っているイスに掛かっている力と微小な歪み具合は体重移動のたびに再計算されている。口の中で無意識に動いた舌がかき混ぜた唾液の動き。壁に掛かった時計の発するチクタクが部屋中に進行する疎密波の全て。蛍光灯を出発した光子が壁紙を構成する原子の持つ電子と起こす全ての相互作用。すべてが物理学の法則通りに、計算されて、それもどこにも1つのミスもなく完全に計算されて現象が進行している。この膨大で莫大で想像すると人間の頭なんて一瞬でオーバーフローする圧倒的計算量。
 追い得ぬものについては沈黙するしかない。