連載小説「グッド・バイ(完結編)」1

 前回の投稿に「fridge」という短編小説を載せ、それは太宰治「令嬢アユ」へのオマージュみたいなものでもあると書きました。そして「こういういかにもな文体で何かを書くことはもうないと思う」と書きました。
 「fridge」を書いたのは15年以上前のことで、「令嬢アユ」を読んだのは20年以上前のことです。
 当時の僕も手放しに「太宰治が好き」という感じではありませんでしたが、もちろん強くフックするものがあって、それはもしかすると十代後半から二十歳前後にかけての人間だけが持ち得る感覚だったのかもしれません。
 太宰は38歳で自殺していて、僕はもう37歳で、正直はところ太宰治に対して「ちょっとそれは、、、」と思うことはたくさんあります。
 それでも彼がある重石を僕の中に置いたことは確かで、あることを5,6年前から考えていました。
 「グッド・バイ」の続きを書くというものです。
 「グッド・バイ」は太宰治の最後の作品で、そして未完の作品です。
 1948年の5月15日、「人間失格」脱稿の5日後から執筆を開始して、6月13日に連載13回目までを書いて自殺しています。
 続きを書きたいのかと言われるとどうも良くは分からないし、構想が別にあるわけでもなく、他に書きたいこともあるし、何より気が引けて躊躇われるし、でも、どうにもこれを終えてしまわないとすっきりしません。
 まず重石を取り去らなければ、僕がそれなりには発酵させて来た漬物を取り出すことは難しいようです。
 それ故に書くことにしました。
 連載の形態で書きます。もちろん13回目までは太宰治の書いた原稿そのままです。13日間は助けてもらう形になります。

 先日、三鷹まで太宰治の墓参りに行って、自分でも驚きましたが、そういうことを言いました。
 たぶん、大丈夫。では。
 
------------------------------------------------------------------------

 「グッド・バイ(完結編)」:1

・変心 (一)

 文壇の、或る老大家が亡くなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。
 その帰り、二人の男が相合傘で歩いている。いずれも、その逝去した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就いての、極めて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡、縞ズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢のおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士の蛇の目傘にいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
 全部、やめるつもりでいるんです。しかし、それは、まんざら嘘で無かった。
 何かしら、変って来ていたのである。終戦以来、三年経って、どこやら、変った。
 三十四歳、雑誌「オベリスク」編集長、田島周二、言葉に少し関西なまりがあるようだが、自身の出生に就いては、ほとんど語らぬ。もともと、抜け目の無い男で、「オベリスク」の編集は世間へのお体裁、実は闇商売のお手伝いして、いつも、しこたま、もうけている。けれども、悪銭身につかぬ例えのとおり、酒はそれこそ、浴びるほど飲み、愛人を十人ちかく養っているという噂。
 かれは、しかし、独身では無い。独身どころか、いまの細君は後妻である。先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開し、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。
 終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあずけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、もうけた。
 けれども、それから三年経ち、何だか気持が変って来た。世の中が、何かしら微妙に変って来たせいか、または、彼のからだが、日頃の不節制のために最近めっきり痩せ細って来たせいか、いや、いや、単に「とし」のせいか、色即是空、酒もつまらぬ、小さい家を一軒買い、田舎から女房子供を呼び寄せて、……という里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通る事が多くなった。
 もう、この辺で、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。それに就いて、……。
 それに就いて、さし当っての難関。まず、女たちと上手に別れなければならぬ。思いがそこに到ると、さすが、抜け目の無い彼も、途方にくれて、溜息が出るのだ。
「全部、やめるつもり、……」大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」