広告化社会の繁殖する柔らかな文体

 生ぬるく柔らかな文体がネットの発展と広告のより深い浸透に伴い廃屋のカビのように繁殖している。
 その文体で書かれた文章を絶対に読みたくはないのだが、不思議なことにとても疲れているときにはその文体で書かれたテキストを読んでしまう。たぶん何も考えなくていいからだ。村上龍がどこかに精神が限界のときには懐石しか食べれないと書いていた。懐石はすべて柔らかく調理されていて、小さく加工されていて優しい。味にはバラエティがあるが、強いスパイスが効いていたり異常なボリュームがあってなにかと戦うように食べる必要もないしナイフで切ったりスプーンに持ち替えたりする必要もない。ただ箸で食べやすく盛られた料理を口に運んで抵抗もなくそれらを噛み砕いで飲み込めばいい。
 懐石料理の悪口をいうつもりではない。懐石料理は素晴らしいが、懐石料理しか食べることのできない人間はどこか病んでいて弱っているのではないかという話だ。反対に懐石だけを食べて育った人間がいれば、きっとその人間は硬い肉や大きな野菜の塊なんかを食べたことのある人間よりもずっと弱くなってしまうのではないだろうか。

 ネットを中心としてその柔らかな文体が異常に繁殖し、僕たちは知らない間に懐石ばかり読むようになっている。
 柔らかな文体は主に若者向けに何かを紹介する記事に使われている。つまり広告のような記事というか、記事のような広告に。
 ナウいけれどみなさんと同じ等身大の僕ワタシという体で毎日毎日何かが無数に紹介されていく。

 そんなことを言われても、漠然としていて何かよくわかりませんよね。
 なのでちょっと例を挙げてみようかと思います。具体的に例を挙げると、「これは例のあれだ!」とみなさんも納得して頂けるのでは。
 著者の主張によると、どうやらその柔らかい文体というのは「ギズモード」や「たびらぼ」なんかのバイラルメディアでよく使われているそうなんです。うーん、バイラルメディアは大好物なので身につまされます。。。スキマ時間だけではなく結局気づいたら毎日長時間読んでいるという人も多いのでは。たしかに柔らかなぼやっとした文体だと言われてみればそうかもしれませんね。べつにそういう文章をたくさん読んだからといって何か悪いことがあるとの研究結果がでているわけではないようなので過度の心配は禁物ですが、たしかにぼんやりした文章ばかり毎日読んでいるのは不安にもなりますね。ちょっと頑張って難しそうな本にでも、たまにはチャレンジするのかいいのかもしれません。僕も帰ったらドストエフスキーを引っ張りだしてみようかと思います。

 というようなのが等身大の「僕ワタシ的懐石文体」で、これについてだけ書くつもりだったのだがついでに「ちょっと頑張る俺ワタシ」スタイルについても紹介しておきたい。

 「関連するものを、ひとつプラスする」という選択。
 もう十分なのかもしれませんが、それでもさらにもう一つ加えることにしているんです。そうして一つ余分にプラスするには、日頃の準備が必要になってくるので自然と情報収集のアンテナが磨かれますね。もちろん、いつもいつも何かをプラスする必要もないですし、プラスすることを考えない人達のことを否定しているわけではありません。スタイルは人それぞれですし、実際にはわたしもプラスすることが難しいときは諦めて気持ちを切り替えます。無理はしないでなるべく自然体でいたいからです。でも、できればあと一つプラスしたいという日頃の心構えがステップアップにつながっていくのかなとも感じています。

 自分で書いていて虫酸が走るのだが、インターネットの「コンテンツ」がこういう文章だと吐き気がするので内容の如何にかかわらずなるべく読まないことにしている。「等身大の僕ワタシ文体」「ちょっと頑張る俺ワタシ文体」がネットに溢れているのはいうまでもなくネットの情報で目に付くものの大半が広告宣伝だからだ。「等身大の僕ワタシ」はマスに寄り添うためで、「ちょっと頑張る俺ワタシ」はマスの欲望を点火するため。ネット以前、世の中の「文章」は広告ではないものが多かったが、ネット以後の社会では広告として書かれた文章が指数関数的に増加している。思考の根幹でもある言語が広告に汚染されることは僕たちの生活に大きな影響を与えるようになるのではないかと思う。