一本の棒が教えてくれること。杖術と宇宙

 15年ぶりに杖を触りました。それも思い立ってアマゾンで買ったのですが、たった一本の棒が面白くて仕方ないので毎日振り回していて、そうするうちに武術のことを色々書きたくなったのでこれを書いています。
 念の為ですが、杖というのはいわゆるおじいさんが使うツエのことではなくて、杖術という形で武術に用いる棒です。もともとは生活用品のツエで身を守るということだったわけですが、今の普通のツエとはちょっと違う性質の棒になっているので、もはや武術のための棒と化しています。

 15年ぶりに触ったと書きましたが、15年前にも杖は少ししか触ったことがありませんでした。当時、僕は格闘技や武術が好きで色々なところに顔を出していて、特に合気道は毎日練習していました。合気道では杖も使うので、先輩方が杖を扱っているのを見て少し教わったりしましたが、「わざわざ武器を持たなくては使えない技なんて練習してもしょうが無い」と思っていて、杖には大した興味が持てなかったのです。
 杖を練習することの意味が分かってきたのは、道場へ行ったりしなくなって随分経ってからです。内田樹先生が見事な説明をしておられました。武器というのは一見とても便利な道具に見えるけれど、実際には扱い方が分かるまで「自分の動きを妨げる邪魔者」です。たとえば、重たい刀を持ったらいきなり自由自在に振り回したりなんてできません。こんな重たいものを無理して振り回すより、軽快で自由に動ける素手の方が戦闘力が高いんじゃないかというくらいです。
 それを押して武器の訓練をするのは、実は「邪魔者と仲良くなる」為です。仲良くなって自在に扱えるようになる。その結果、素手では到底成し得なかったようなことができるようになる。杖なら杖の行きたい方に行かせてあげて、それが即自分の望む方向でもある。そのような自分と杖のどちらが主であり、どちらが従であるのか分からないような協調系が発現します。
 つまり、今までは「自分の身体のみ自由自在」だったのが、「自分の身体+武器で自由自在」という拡張されたシステムができます。これは小さな一歩かも知れませんが、鮮烈な清々しい一歩で、はじめて自身の身体から一歩外に出たわけです。

 拡張は一歩では終わりません。「身体+武器」の次にシステムに組み込みたいのは「敵対者」です。今度は相手に意思(というか敵意。。。)があって、向こうも自分の動きたいように変化するので、武器のときのように一筋縄では行きません。が、発想としては武器のときと同じことです。「身体+(武器)+敵」で新しい系を組み上げて機能させること。その発現したシステムの運動が「相手は倒れていて自分は立っている」という結末に向かって行くこと。武術では敵を作らないというのはこういうことです。この先に「もう戦わないでお互い仲良くしよう」というのがあります。「武術の極意は自分を殺しに来た人間と仲良くなることだ」は人を煙にまくための「逆説っぽいこと言っといたらいいだろう」で言われているのではなく、こうした段階を踏んだ話です。

 敵を「なくせたら」それで武術は終わりかというと、これには終わりがありません。「身体のみ」から「身体+武器」、「身体+武器+敵」へと拡張された「自分」というシステムはその拡張をやめることなく広がります。次は「大地」かもしれないし、「風」かもしれません。そのとき自分の周囲にあるもの全てへと拡張は続きます。これは「砂浜で喧嘩していて砂を相手に投げて目潰しする」というような話でもあったりはしますが、同時にもっとなんだか分からない超越的なレイヤーの話でもあります。終わりなき拡張の果てはもちろん「全宇宙」です。だから「武術は地球と一体になることだ」とか「宇宙と一体になる」というのは、これも冗談でそれっぽく言われているわけではありません。本当にそんなことできるのかどうかは兎も角、そういう所を目指して稽古は広がります。

 15年ぶりに恐る恐る狭い部屋で振り回した杖は、微かにですがそういうことを実感させてくれました。「体というのはこういう風に動かすのだ」と、何の変哲もない樫の棒があれこれ教えてくれて、それに耳を澄ますのは気分の良いものです。

私の身体は頭がいい (文春文庫)
内田樹
文藝春秋