書評:『文化系のためのヒップホップ入門』

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
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 ここのところベーシック・インカムの話ばかり書いていましたが、今回は少し話を戻してヒップホップのことを書きます。
 しばらく前の記事で、都築響一さんのインタビューのこと、それに触発されてちょうど同居人の女の子が見ていた映画『サイタマノラッパー』を見たことを書きました。いつのまにか音楽にクールだけを求めて意味なんて求めなくなっていたこと、むしろ意味は邪魔だと思っていたということも書きました。
 今回はその続きです。

 都築さんのインタビューは重要だと思うので、引用した部分を再録しておきます。

《都築:それは、その時代その時代で、特に若い子たちの想いっていうものを、一番確実に表現する音楽のジャンルがあるんです。それはたぶん、40年くらい前だったら、自分が「あぁ?!」と思ってることを一番ダイレクトに表現できたのはフォーク・ミュージックだったかもしれない。そしてそれがパンクだった時は、「とにかく3コードさえおさえればいけるぞ」みたいなことでいけたと。そもそもの最初に、僕の地方巡りの仕事っていうのがあるんですけど、地方に行くと若い子たちがつまらなそうに夜中にたまったりしているわけじゃないですか。でもそこで昔みたいに、ギターで「とりあえずFを練習するぞ」とかではない。それがここ10年ぐらいはヒップホップで、「とりあえず有りもののビートで、とにかく自分のラップをやる」と。そして、それを中学校の体育館の裏で練習するみたいな、僕は特に日本ではそうだと思ったんです。それからやっぱり、ヒップホップは他の音楽に比べて垣根が滅茶苦茶低い。だって楽器がいらなくて、マイク一本でしょう。スタジオすらもいらないくらいで、夜中の公園とかで練習できる。一番お金がなくても練習できる音楽で、だから世界中に広まったと思うんです。僕は世界の田舎にも行くんですが、昔見ていた、ロックが世界中に広がっていく速度よりもヒップホップの方が早い。だって今、イランだってラップがあるわけだし、たぶん北朝鮮にだってあるかもしれなくて、これだけ包容力のある音楽形態ってなかなかないわけですよ。中国にロック・バンドもありますが、それはやっぱり資産階級じゃないとできない。だけどヒップホップの場合は、本当にラジカセ一個あればいいということがあるので、そういうヒップホップの形態の持つ力というのがありますよね。》

 あれから僕はヒップホップの本をいくつか読んでみたのですが、『文化系のためのヒップホップ入門』という本が素晴らしかったです。

 文化系のためのヒップホップ入門、とは随分ヘンテコなタイトルですが、タイトル通り文化系の為に文化的に書かれたこういう本は待望されていたはずです。
 ヒップホップはなんともヤンキーっぽい音楽で、そのままでは文化系にはなかなか飲み込めない。
 本文にもこのような記述があります。

《大和田:あと日本の場合、ニューウェーブを聞いてきた層は文化的エリートかサブカル・エリートが中心で、恐らく彼らは地元のヤンキー的価値観を憎悪しているんですよ(笑)。だいたい地方の中学や高校だと、ヤンキーや運動部が幅を利かせていて、オタクやサブカルはおとなしくしてるじゃないですか。「自分はこんなやつらと違ってエッジーなカルチャーに接しているんだ!」というギリギリのプライドだけで日々の生活をサバイブしているのに、その「新しいサウンド」の中身が地元主義だったり不良グループの抗争だったりすると心底勘弁してほしい、ということになるのかも。こういうのが嫌だから早く東京に出たいのにって(笑)。》
 
 そういうものをナマのまま口にするのがしんどいとしても、この地元主義や不良グループの抗争を音楽の歴史の文脈に嵌めこむことで、すなわち「文化の香り」を振りかけることで、口当たりを良くして食わず嫌いを治す効能がこの本にはあります。

 とはいうものの、「音楽の歴史」と先程書きましたが、本書の最初ではいきなり「ヒップホップは音楽ではない」と断言されてしまいます。
 では何かというと、「ゲーム」であって、どれだけ上手く言い返せるかという「プロレスやお笑いみたいなもの」だということです。
 だからゴシップとか抗争争いはヒップホップではとても重要です。
 大和田さんのゼミにアメリカ帰りのヒップホップ大好きな学生がいて、その学生は「誰が誰のレーベルに移った」とか「誰と誰が仲悪い」とか、そういうラッパー達の事情にとても詳しいのだそうですが、「彼がヒップホップを聞いているのを見たことはない」というようなことが書かれていました。そして、大和田さんは「そういうヒップホップの”聞き方”が意外に正しいんじゃないか」みたいなことも書かれています。

 プロレスとかゴシップとか、なんだか低俗なことばかり書いているようで、「前にヒップホップは日本を変えるとか救うとか言って広げた大風呂敷はどうなっているのだ」と言われてしまうかもしれませんが、この「プロレス」に実は鍵があります。
 肉体と肉体のぶつかり合いに。

 ええ、僕は、言葉が身体性を取り戻した、ということについて書こうと思っています。

 都築響一さんのインタビューを読み、そのあと『サイタマノラッパー』を見て僕が思ったのは「ヒップホップによって僕達は言葉に身体性を取り戻した」ということでした。
 当初、それをリズムとライムで説明しようと考えていたのですが、『文化系のためのヒップホップ入門』を読むと、いきなり体の話が出てきてしまい、しかもそれは僕が考えていたことよりも随分ダイレクトなものだったので、まずはそれを紹介したいと思います。

 冒頭、色々な音楽を長い間聞いてきたし、結構なんでもいける口だったのにどうしてもヒップホップは聞けなかったという話の後に、こんなことが書かれています。

《大和田:じつは5年前に足を骨折しまして(笑)。フジロック・フェスティバルでビールを飲みながらはしゃぎすぎて穴に落ちて、膝の陥没骨折で全治4ヶ月ですよ。その翌日からヒップホップしか聞けない体になってしまいました。

 長谷川:足を折ったんじゃなくて頭を打ったんじゃないですか?(笑)》

 なんだそれ?というような話ですけれど、どうやらそういうことのようです。
 この話は、本の後半にもう一度出てきます。

《大和田:当時暇があったので「骨折してヒップホップにハマる」ことについて一生懸命考えたんですよ。それで思ったのは、ロックという音楽ジャンルはやはり基本的な表現の回路が「内省」にあるということです。「子供のころのトラウマ」や「心の傷」などのステレオタイプがあって、個人的な内面の葛藤を表現するというイメージがロックにはある。それに対して、ップホップはどこまでも「身体の損傷」が問題になるというか、「お前は5発撃たれたかもしれないけど俺は9発撃たれたぜ」というように、決して内面に向かわない。徹底的に身体的であると。つまり何が言いたいかというと骨折はまったく「内省」に結びつかないんですよ。「心」に向かわない。これが「結核」や「潰瘍」であればどこか文学的なイメージと結びついてロックばかり聴き続けたかもしれないんですが(笑)》

 やはり、ヒップホップと身体性は切っても切れないもののようです。
 長くなって来たので続きは次回に書きます。

 (追記)この本を読むと、なんといっても長谷川町蔵さんと大和田俊之さんの知識量に圧倒されます。
 誰かが自分の好きなことについてバーっと立板に水の如く話しているのを聞くとき、内容が分からないとしても僕は嬉しくなってテンションが上がってしまうのですが、二人の対談形式になっているこの本でも同様の感覚を味わいました。
 曲名もバンド名も、もう全然分からないのですが、それでも楽しくてどんどんと読んでしまいました。
文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
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