時間なんて流れていないという論理

「もしもタイムマシンが作れたとして、あなたが過去へ行き自分の親を殺したらどうなるのか。
 親がいないならあなたは生まれない、
 あなたが生まれないならあなたは過去へ行かないから親も殺されないし、
 やっぱりあなたは生まれる、
 あなたが生まれたなら過去へ向かい親を。。。。」

 いくつものSFが主題に取り上げた有名な「親殺しのパラドクス」。
 このパラドクス故に因果律が乱れるからタイムマシンなんて絶対にできない、という人もいるし、パラドクスを回避するような理屈を考えている人もいる。
 本当のところどういうことが起きるのかは誰も知らない。
 とにかく、タイムマシンがあると不思議なことが起こる。
 21世紀初頭の物理学とパラダイムしか持っていない僕達にとって、タイムマシンが不思議なのは当然のことかもしれない。いつかそれが当たり前になるというのもあまり考えたくはないけれど。

 タイムマシンの矛盾以前に、時間がそれ自体で論理的に破綻しているという人もいる。
 
 『今日は2011年2月16日である』
 『今日は2011年2月16日ではない』

 上の文と下の文は「否定」の関係にある。
 簡単に論理構造だけを抜き出せば

 『A』
 『not A』

 なわけだけど、これは論理的に両方が真というわけにはいかない。
 Aが真ならばnot Aは偽だし、not Aが真ならAは偽だ。
 「これは赤い」が真ならば、「これは赤くない」は偽だし、逆もしかり、ただ「これは赤い」「これは赤くない」の両方が真というのはない。(念のために書いておくと、ここではAさんとBさんで見え方が違うかもとかそういう話はしていません。論理構造だけの話をしています)
 
 ところが、最初に上げた2月16日の文は両方とも真だ。
 2月16日には『今日は2011年2月16日である』は真だし、明日なんかに読めば『今日は2011年2月16日ではない』は真になる。
 つまり時間の存在がAとnot Aを共に真にしている。
 そんなことは論理的に許されない。ということは時間の存在自体がおかしい。
 論理的に考えて時間なんてないのだ。
 時間は存在しない。
 QED

 わお!
 って言えたら面白いんだけど、そうは簡単に行かない。
 もう少しきちんと考えてみよう。

 長いチューブがあるとする。
 直径は3メートルくらいあって人が入るのに十分広い。
 内壁は一部分が赤く塗られていて、他の部分は緑に塗られている。
 赤い部分の中にはAさん、
 うーん、いつもAさんでは味気ないから量子情報分野の慣習に則ってアリスにしよう、
 赤い部分の中にはアリスがいる。
 緑の部分の中には、ここもBさんではなくボブがいる。

 上の命題における「時間」を「チューブ」に、「2月16日」を「赤い部分」に置き換えた同じ構造を持つ描像だ。

 このとき、『今日は2月16日である』は『ここは赤い』に相当する。
 『今日は2月16日ではない』は『ここは(緑だから)赤ではない』になる。

 アリスは赤の中に立っているので、アリスにとって
 ・『ここは赤い』は真
 ・『ここは赤くない』は偽

 ボブは緑の中に立っているので、ボブにとって
 ・『ここは赤い』は偽
 ・「ここは赤くない』は真

 これは問題ない。
 問題は、アリスがボブの所までトコトコと歩いて行った場合だ。

 元居た赤い部分で
 「『ここは赤い』は真!」
 とコールして、それからボブのところまで歩いて行って
 「『ここは赤くない』も真!どっちも真」
 と叫ぶのはインチキじゃないのか?というお話です。
 だから、時間の存在を否定すると書いてしまったけれど、時間の連続性というか流れを否定するという書き方の方が正確かもしれない。
 アリスがボブの所まで歩くのはOKじゃない、つまり時間の中を移動することはOKじゃないという。

 これがどういう「OKじゃない」なのかというと、青森県の人に「何県の方ですか?」と聞いて「青森県ですよー」という答えが帰ってくることはOKだけど、熊本の人が「何県の方ですか?」と聞かれて、”その瞬間に熊本県民から青森県民に変化”して「青森県ですよー」と答えるのはもう滅茶苦茶だ、というOKじゃなさです。
 そんなことが許されるなら宇宙にいる人全員が青森県民になってしまう。

 ついでにもう一つ、今度は時間に関わる例を出すと、20歳の人が「何歳ですか?」と聞かれて「20歳です」と答えることはOKだけど、20歳の人が「何歳ですか?」の回答を20年間保留して、20年後に「40歳です」と答えるのはOKじゃない。

 アリスがボブの所まで移動する、移動してから真偽を判断するというのはそういうOKじゃなさを持っている。
 だから、アリスはアリスの場所を動いてはいけないし、同様にボブはボブの場所を動いてはいけない。その時点での論理はその時点でしか処理されない。動くということはその場の論理にあの場の論理を混合してしまうことになる。
 ここで場所というのは時刻の事だから、アリスはアリスの元の時刻から出ることはできないということになる。
 つまり、僕達は「今」から出ることができない。「今」は「今」だけで成立していて、「ちょっと前の瞬間」も「ちょっと後の瞬間」へも流れない。時間は流れていない。全ての瞬間は離散的に無関係に存在している。

 とはいうものの、これはあくまで「ある時間性を孕んだ命題に対する論理」を根拠に組み立てられているものでしかないので、時間は不連続だ、流れてない、時間なんてない、と早合点せずに、もう少し命題を重ねる形で話を進めたいと思います。

時間は実在するか (講談社現代新書)
講談社


時間はどこで生まれるのか (集英社新書)
集英社