スパイ達の軽やかな生活

 さっき手に入れたばかりのメルセデスを、敵の車に躊躇いなくぶつける。それで目的地に付いたなら車はお役御免。そこへ乗り捨てて、あとは飛行機だか徒歩だか。グッバイメルセデス

 三日前に引っ越してきたアパートメント。買い揃えたばかりのベッドやテーブルやソファ。夕飯ならデリでどっさりと買い込んできたし、軽いテーブルワインもある。バドワイザーってこんなに薄い色だったっけな。知らない、グラスに入れたことなんてないもの。バドワイザーはいつも缶のまま飲まれる。窓の外見たらさ、あいつらどうもここ見張ってるね、ばれたみたいだな。
 ここはもう危ない。
 食事もワインもビールも新品の家具もほっぽりだして、さて逃げ出すか。バイバイ新しい住処。たったの三日間だったけれどありがとう。
 ここへは二度と戻らない。

 スパイは物に執着しない。
 お気に入りのイスだから、とか言わない。要るときに好きなイスを買い、逃げるときには置いていく。新しい場所で、また新しいものを買えばいい。
 この時計は誰々の形見だから、とかも言わない。盗聴器を組み込んだ時計をあいつの車のシートの下に置いてくる。
 思い出は全て頭の中に。
 全ては自らの身体に。

 思い出。技術。知識。記憶。
 全ては自らの身体に。
 ユダヤ人の教えのように。
 世界のどこへでも、いつでも体一つで。

 スパイはどこででもサバイブする。
 大都市ででも、ジャングルででも。
 移動に車が必要なら車を買う。買えない状況なら悪いけれど人のを借りる。もしかしたら返せないかもしれないけれど。
 きちんとしたビジネスマンの振りをしなきゃならないなら、きちんとしたスーツを買う。用が済んだからスーツはゴミ箱に。

 用が済んだらスーツはゴミ箱に。
 それからサングラスはいつも高級なのを。

 スパイの友達同士なら、連絡先なんて交換しなくていい。世界のどこにいても、お互いにすぐ見つけることができるから。ローマにいるのか、あいつ。って飛行機にさっと乗って。あっ、パスポートなら偽物が何個でもあるし、許可証の類ならいくつでもいつでも入手できるから、細かいことは気にしない。許可証ならいつでもほらここに。IDならいつでもほらここに。

 スパイの友達同士はプライバシーなんて堅苦しいものは要らない。二日酔いの朝、ガールフレンドと眠っている枕元に、気が付けば彼は立っている。おはよう、寝てるとこ悪いけれど、ちょっと急ぎの用があるんだ、はいコーヒー飲むかい。もちろん、君は「どうやって入ったんだ?」なんて野暮なことを聞かない。鍵なんてスパイにはあってないようなものだ。コーヒーを受け取って、まだ眠っているガールフレンドを起こさないようにリビングへ行く。

 スパイの友達は世界のどこにいても繋がっていて、互いに隠せるものもなく、鍵も意味をなさない、完璧にオープンな関係。
 スパイは物にも場所にもお金にも執着しない。必要な時に手に入れ、用が済むとさっと離す。彼らが執着しない理由は明白だ。必要な時に必要なものを手に入れる方法を知っているから。その能力が自分にあることを知っているから。
 スパイは自由だ。国境。所有地。企業の建物。誰かの部屋。そういうふうに人類が世界に引きまくった分断線を彼らは気にせず易々と越える。
 スパイは自由だ。私の物。彼の物。国家の物。公共物。僕達が勝手に決めた所有という概念をあっさりと越える。目の前にある必要なものを使い、使い終わるとグッドバイ

 風のように軽やかに。
 まるで仏教の教えのように。

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