制服と定形性。

 数日前に書いてアップするのを忘れていました。
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 前回の投稿で、『制服反対!』ということを声高に書いたところですが、昨日の内田樹ブログにタイムリーなことが書かれていて考え込んでしまいました。

 引用します。
『身体運用の同調はおそらく幼児がもっとも早い時期に興味をもち、かつ訓練されることである。
幼児教育が「おゆうぎと歌」を中心に編成されているのはゆえなきことではない。
同一動作の鏡像的反復は脳内のミラー・ニューロンを活性化させる。
ミラー・ニューロンは「鏡像」との同一化能力を強化し、それはそのまま子どもたちを「主体の基礎づけ」に導く。
初等教育でも、同一動作の反復はあらゆる場面で繰り返される。
これを「心身の権力的統制」とか「馴致」とか口走る人は「主体」の存立を不当前提している。
主体が出てくるのは、ずいぶん後の話である。
まず主体を作り上げなければ話にならない。
とにかくミラー・ニューロンが活性化して、鏡像をおのれと「誤認」するという経験を経由しないと主体は始まらないのである。
中等教育でもだから「標準的な身体運用」が強制される。
他者の身体との同調、共感、感情移入、「鏡像とおのれの混同」を経由してはじめて主体性を司る脳機能が基礎づけられるからである。
個性を消すためではなく、個性が育つ基盤を作るために、「他人と同じ動作」をすることが強制されるのである。
「型にはまった」制服や校則を忌避する少年少女たちが、その一方で、彼ら同士の間では、まったく同じような「着崩し」方をし、まったく同じような髪型をし、まったく同じようなメイクを共有し、まったく同じような口調で、まったく同じような内容の話をするのはなぜか。
それは「個性の追求」ではなく、「型にはめられること」を彼ら自身が希求しているからなのである。
それは必要なことなのである。
だが、定型性は定型性として外部から「強制」されるべきだと私は思う。
「外から強制された定型性」はいつか、子どもたちが成熟し、社会的な力がつけば振りはらうことができる。
だが定型的なふるまいを、それを現になしている主体が外部からの強制ではなく、「自分の意思で選んだもの」であると思い込んでいたら、そこからは出ることができない。
押し付けられた定型からは逃れられるが、自分で選びとった定型からは逃れ難い。
他人にかけられた呪いよりも、自分で自分にかけた呪いのほうが解除しにくい。
学校の機能は子どもたちを成熟に導くことであり、それに尽くされる。
標準的な身体運用を強いること、あるいは外見が同一的であるために自他の識別がむずかしくなるような仕掛けを凝らすのは学校という制度が成熟のための装置である以上、当然のことなのである。 (引用終わり)』

 ここでは主体立ち上げの為の道具の一つに制服がカウントされている。そして主体ができたあとはそこから勝手に出て行けば良い。「押し付けられた定型からは逃れられるが、自分で選びとった定型からは逃れ難い」というのはキーに見える。
 うっかり説得されそうになるような上手な話だ。