場所。

 気分屋で付いて行けない、と言われることが少なくない。考えてみれば子供の頃からそうだったし、たしかに僕には昨日の夜おいしいと言いながら食べていたものを次の朝にはまずいというようなところがある。昨日言っていたことと今日言っていることが違うし、このブログに書いたことについて誰かが「あれは私もそう思う」と同意してくれても、もうその頃には「僕はあれはそうは思わなくなったよ」と答えることも少なくない。

 だから、僕が冗談を言っているのかとか、からかっているのだろうと思われることも多いけれど、けしてそういうわけではありません。僕は到ってまじめにそう思って受け答えしている。意見や好みが変わるのは、たとえば「好きな食べ物はなんですか?」という質問を受けたときの答えみたいなものだ。今この瞬間なら「イチゴ味のパピコ」って答えるけれど、本当にお腹が空いている時に同じ質問をされたら答えは天丼とかペペロンチーノなんかに変わっているに違いない。変な言い方だけれど、さっきまでの自分と今の自分と未来の自分はほとんど別人みたいなもので、僕が僕という場所を僕だと認識しているその事実以外にずっと同じものは何もない。まるで意見がコロコロ変わることへの弁解を書いているようだけど、弁解じゃなくて本当はそういうものではないかと思います。コルビジュエだって言ってることと建築が全然違うけれど、でも彼の建築も言っていることも両方がとても興味深い。それは単に二つの思考がコルビジュエという場所で起こったということに過ぎない。僕達は本来が一人でいくつもの思想と好みを持っている。それを認めないのは単に個人間の差異化を明確にしたいという社会的な欲求と利便の追及に過ぎない。あの人はこういう人でこういうものが好きでこういう考え方をするしこういうことを言っていたからこういう風にしておけばいいだろう、みたいな手続きの為のものだと思う。本当は僕達は無限の大きさを持った空っぽの場所に過ぎない、そこには何をいくつ出し入れしても自由だし、可能性というのは無限に開かれている。だから嫌いだと言っていたピアノを今から好きになってもいいし、苦手だって思っていた中国語を今から得意になってもいい。本当はそういうことだと思う。
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 場の量子論で座標系によってハミルトニアンの形が違うのは、本質的にどういう意味を持っているのだろう。同じ現象を記述するにも直交座標で量子化したハミルトニアン極座標量子化したハミルトニアンでは形が違うし、どちらが正しいハミルトニアンなのかということを知る手立ては実験結果に理論値が合うかどうかということを見るしかない。たしかにどの座標系で現象を考えるかというのは大事なことかもしれないけれど、普通に考えて実験系の3次元空間を直交座標でとろうが極座標でとろうが自由な感じがするし、量子化の手順に何か深い問題があるような気がする。実際に場の量子論は非相対論的な場面ではまだいいにしても相対論的な場面では随分議論があって、まだまだ発展の余地が残されているみたいだ。