名を呼ぶ者。名を呼ばれる者。

 実は、僕はある女の子の名前が苦手だ。その名前の女の子と何かあったというわけではないし、自分でもどうしてその名前が苦手なのか分からない。その名前は極々一般的な名前なので、たまにその名前を持つ女の子に会うことがある。すると僕はその人の名前を素直に呼ぶことができない。本当に失礼な話だけど、名前のことは忘れようとする。

 一体これは何なのだろう。
 精神分析の好きな人は、それこそが、どうしてそれが嫌いなのか自分で分からないほどにまで抑圧されたなにかこそが本当のトラウマだし、きっと君は過去にとても嫌な体験をしてそれに蓋をして思い出せないようにしているのだ、と言うかもしれない。
 そんな風に「無意識でどうこう」と言われると、それは僕に意識できない範疇の話なので反論はできない。もしかしたら幼稚園にその名を持つ女の子がいて、彼女が僕に猫のフンを食べさせようとした事件があったのに僕ときたらきれいさっぱりそのことを忘れていて、今はただその名前に嫌な感じを覚えるのみ、みたいなことが絶対にないとは言い切れない。でも、たぶんそういうことはなかったと思う。

 良く考えてみると、僕が違和感を感じるのはその名前を男バージョンに改造してみても同じだ。多くのポピュラーな日本人の名前って簡単に男バージョンと女バージョンが作れますよね。たとえば僕は良太という名前ですが、世の中には良子という名前の女の子もたくさんいる。加えてこれはまったくの余談だけど、小学校中学校の同級生に良子という名前の子が居て、その子は誕生日まで僕と1日違いだった。閑話休題。だから僕はその名前の幹に当たる部分の音がなんとなく苦手なようで、それは多分特定の誰かに原因を帰結するものではないと思う。ただの好き嫌いだと言われればそれまでです。

 平安時代とかの大昔、人々にとって名前はその人そのものといった感じで大事にされていたらしい。他人に本名を明かすのは呪いなんかの関係もあって危険だから、基本的には本名ではなくニックネームを使っていた。本名を明かすというのはその人の前で裸になるようなものだ。加えて、悪霊だとか魑魅魍魎の類がその子供に興味を示さないように「うんこ丸」「便器ちゃん」みたいな汚いニックネームもつけていたらしい。本当だったとしたら、魑魅魍魎の方はどうか知らないけれど、子供の精神衛生上あまり良くなさそうですね。そういえばとても昔付き合っていた女の子は「私の名前は呼ぶときの音がちょっときつくなりやすいから、だから私ってきつい性格になったかもしれないって親が心配している」というようなことを言っていた。

 僕はもしも自分の名前が今の名前と違うものだったらどういう人間になっていたのだろうか。僕は今の名前でなければ「童憧馬」だかなんだかと書いてドラマと読ますつもりだったようで、それはそれで大変な人生になっていたのではないかと思う。