particles in the foggy blur.

 僕の専門には全然関係がないけれど、大学院で造形思想論という授業を受けています。この間までは西田幾多郎の話でした。恥ずかしいことに、僕は京都に住んでいて、哲学も少しは興味があるくせに西田幾多郎のことを名前しか知らなかった。まだ少し聞き齧ったくらいじゃほとんど何も知らないに等しいけれど、もしかしたら物凄い哲学者なんじゃないかという凄みを感じています。

 教室には門外漢が僕だけなので、先生は気を使ってときどき物理や数学を例に取って下さり、それから西田幾多郎量子力学にも興味を持っていたということを教えてくださった。
 西田幾多郎は1870年生まれで、なくなったのは1945年なので、ちょうど量子論の黎明期に重なる。量子力学はある意味哲学や文学が議論してきたことが実体を持って立ち上がってきた事件でもあったので、当時の鋭敏な哲学者が興味を示したのは極めて自然なことだ。

 昔このブログに引用したものをもう一度引用すると、

量子力学者の書いた本をいろいろ読んでみた。そして、かれらの言葉に対する感覚が、最高の(現代の)文学者のものであることを知ってびっくりしたのだった」 ―(「文学じゃないかもしれない症候群高橋源一郎朝日出版社

「ぼくたちは経験と類推によってことばを使う。だから、まったく新しい事件に遭遇した時には何もいえない。言葉がないからだ。でも、どんな言葉ももってこられないような真に”新しい出来事”は滅多に起こらない。量子力学ではそれが起こったのだ。」―(出典同じ)

 若きハイゼンベルクの「我々の言葉で原子内部の様子が記述できないのなら、我々はいつまでも原子内部の様子を理解できないのではないか」という問いに答えて、ボーア曰く、

「いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。われわれは、その時こそ”理解する”という言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ」―(「部分と全体」W・ハイゼンベルク、山崎和夫訳、みすず書房

量子論は、われわれがある事柄を完全に理解することができるのが、それにも関わらずそれを語る場合には、描像とか比喩しか使えないことを知らされる1つの素晴らしい例だ。」―(出典同じ)

 僕達の思考というのは、実は言葉と我々自身の五感に制限されている。たとえば、「三角形」はイメージすることができるけれど、「三角形であり、かつ、五角形」なものを具体的にイメージすることはできない。でも、量子力学ではそういうイメージできないものをイメージして、さらにそのイメージできないイメージを用いて思考することが要求される。そんな無茶苦茶なって思うかもしれないけれど、実際に物理学者たちはそれで物事を進めて、僕達のコンピューターも携帯電話も実際に動いているし、量子力学は人類史上、今のところ最高精度を誇る物理理論です。この実体はわけが分からないにも関わらずなんとか前に進めるというのは人類の持つものすごい機能の一つだと思う。

 とはいうものの、まだなんだか良く分からないということも沢山あります。たとえば、量子力学を用いて何かを計算するとき、僕達はその系のハミルトニアンというものを知る必要があります。このハミルトニアンというのは古典力学のエネルギーに近いものなので、古典力学の言葉でその系が記述できるときは古典的エネルギーをちょこっといじってやることで知ることができます。だけど、古典的に対応するものがない系を考えるとき、どうやってハミルトニアンを考えるかと言うと、それはもう半分当てずっぽうになってしまう。滅茶苦茶な話で僕が言っても全く説得力に欠けるので、偉大な物理学者の一人J.J.Sakuraiの言葉を名著"Modern Quantum Mechanics"から引用しよう、

『問題にしている物理系に古典論に対応するものがないとき、ハミルトニアン演算子の構造を決めるのは推量による他ない。色々な形のものを試みて、実験の観測にあう結果が導けるハミルトニアンを見出すのである』

 時にはこのように理論物理学と言っても理論もへったくれもないことだってあるわけです。