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 1,2週間前に、久しぶりにI君と長話をした。僕達は二人とも、大雑把に言うと理論物理学を学ぶ博士課程の学生なのだけど、時折この話題が上がる。「世界にはたくさん苦しんでいる人がいるのに、こんな役に立たないこと研究してて、僕らってほんとに自分勝手だよね」

 何を役に立つといい、何を役に立たないというのかはとても難しい。理論物理はある意味ではとても役に立っている。僕達の生活が物理学の進歩無しには在り得なかっただろうことは誰もが認めるだろう。でも、それが役に立つということかと問われれば、僕は答えを持たない。なくても良かったといえば、べつに携帯もカーナビも電子レンジもなくて良かったのかもしれない。救急車のお陰で命が助かった人もいれば、車に轢かれて死んだ人もいる。そういった誰かの幸福に関わる問題には答えることが難しい。でも、幸福にある人間が生きるということは、ある人間が恋人や家族や友人に囲まれて健康に衣食住に困らず暮らす、ということに極めて近いだろう。ならばそこには農業だとか医学はダイレクトに効いてくる。物理学者は外科医のように傷ついた人を救うことはできない。だけど、外科医がCTやMRIを使えるのは物理学のお陰だとも言える。事態は複雑だ。

 とりあえず明らかなのは、どこかで困っている人を直接助けることを自らの意志で無視して見殺しにして、僕は今机の前に座っているということだ。良いことか悪いことかは分からない。残酷な気もするけれど、でも「俺さ、給料25万なんだけど、節約して10万でやりくりして、それで15万は毎月寄付してるんだ」というようなことを言う人がいたら素直に感心したりもしない。それがいいことなのか悪いことなのか、それすら良く分からない。

 一番良く分からないのは、国連だかどこだかの食料計画とか医療計画とかがもう随分と昔にできて、それで各国がトータルすればもう莫大な額のお金をつぎ込んで援助しているのに、未だに貧困やなにかの問題が解決しないことです。数十円の寄付でワクチンが一個買えて子供一人の命が助かるんですよね?世界各国が、先進国が出してる援助がいくらなのか知らないけれど、まだ不十分で子供がバタバタ死んでいくというのが僕には理解できない? どうせ誰かがうまい汁を吸って、結局苦しい人々には援助がいきわたらないのだとか、資本主義は構造的に弱者を必要とするから本気で助けようなんてしてないからだとか、もうそういった話はたくさんです。

 コーヒー農園で働く人々は貧困の極みにあるそうです。120円入れてボタンを押したらコーヒーが飲めるのはそういうことです。本来、農園の人々がまともに暮らせるだけの対価を払って缶コーヒーが一個300円くらいになっているはずのところを、たぶん色々な会社の”努力”で、豆を買い叩いて120円になっているのだと思う。これは極端に言えば僕達がその農園の人々から差額の180円をもぎ取っているに等しい。UCCだとか、大手のメーカーが、その生産製造に携わる人々全員に、まともな賃金を支払って、それで「うちはちゃんとした値段で豆を買って、労働者にもそれなりの報酬を払っているので、今日からコーヒー300円です」とか言ったらどうなるんだろうか? みんな買わないのかな。全部のメーカーが段々とそうなったらどうなるんだろうか? ペットボトルのジュースが一本500円くらいになって、服がTシャツ1枚5000円くらいになって、靴は安いスニーカーで20000円、パソコン1台50万円。海外の労働者に正当な賃金が支払われ、僕達の生活水準は低くなる。経済格差ってなんだろう。本当に、どうして国によってこんなに物価が違うのだろう。どうして日本でコンビニのレジを1時間やれば貧しい国でホテルに泊まって食事をすることができるのだろう。日本で働いて貯めたお金を持って、貧しい国へ移住してそこに住んでいる人たちを助けるようなことをはじめるのは本当に助けなんだろうか。その貯金ではニューヨークのストリートキッズを5人しか救えないのに、アフリカへ行くと50人救えるのはどういうことだろうか。

 小学校のとき給食を残すのは極悪なことだった。残すならとても深い反省が必要とされた。先生は「食べたくても食べれない人がたくさんいるのに」というようなことを言い。僕はそれなら僕達にサービスする前に多すぎる分をその人たちに回しておくべきだと思った。食べ物を残すことがもったいないことだという感覚が僕になかったわけではない。それは多すぎたのだ。多すぎるものは食べることができない。貧困に苦しむ人々のことを考えながら多すぎる食事を無理矢理お腹に詰め込むというのは異常なことでしかない。今は別問題だし、説教の道具にするのではなく、真剣に飢餓のことを考えているのであれば給食を半分にして浮いたお金を募金に回す、というようなことを会議に提案すればいい。食べ物を残すことがもったいないことだというのは、世界には飢餓に苦しむ人もいる、というのとは本来無関係だ。世界中に食べ物が溢れているからといって食べ物を粗末にしていいわけなじゃない。苦しんでいる人々を上げて、それで何かを僕達に躾けようとする姿勢が子供のとき嫌悪されて仕方なかった。そういうことを言う人は別にその問題のことを考えているのではなくて、それらを単に利用しているだけだった。

 まとまりがないけれど、こういうことは本当に分からない。分からないのではなくて、分からない振りをしているだけかもしれない。分からないからとりあえず今の生活は続けます。募金くらいするけれど。みたいな言い訳のために。本心では遠くの他人のことなんで気にしていないのかもしれない。身の回りの大事な人々さえよければそれでいいのかもしれない。酷い話だけど、僕が何もせずに生きているというのはそういうことを意味しているに他ならない。