ハイパボリック。

 連日、柔道のことばかり書いていますが、そういえばどうして柔道って体重別がメインなのだろう。確かに無差別級っていうのもあるようですが、無差別級には大きな人ばかり出てくるみたいです。水泳の自由形がクロールばかりになるみたいなものでしょうか。

 柔よく剛を制す、というフレーズはどこに行ったのだろう。

 むろん、

 剛よく柔を断つ、という双対のフレーズもありますが、あれでは柔道ではなくて剛道ではないかと思う。

 先日の記事に「社会人」という言葉を用いて、そこに「社会人」という言葉は本当はなんの意味もない言葉だ、と書くのを忘れていました。友達がくれたコメントに返事を書いていて思い出した。
 それで、その記事に書き足しをしようかと思ったのですが、ちょっと思うことができたので書き足しをよして新しいこの記事を書いています。

 社会人という言葉は実に空虚で実態のないものに見える。
 この社会で生きている以上は全員が社会人だとも言える。

 極々一般的には「社会人」という言葉は「自分でお金を稼いで生きている人」に当てはめられるのかもしれない。
 だけど、もっともよく「社会人」という単語が用いられるのは、

「もう社会人なんだから、そんな馬鹿なことをしてはいけない」

「社会人の自覚を持って」

 とかいうような文脈だと思う。
 このような文章から人が何を感じるとか言えば、それはきっと「束縛」ではないでしょうか。
 構造的には、

「もうおにいちゃんなんだから我慢しなさい」

 という台詞とまったく同じだ。
 つまり、あやされているわけです。

 こういうことは昔から思っていた。「社会人」というのはひどい言葉だな、と思っていた。だけど、最近明治の悪口を書いているせいか、僕はこの「社会人」という言葉とその使用法の源を、またしても明治に見出してしまったのです。

 これは昔、高橋源一郎さんが明治文学の講義のときにおっしゃっていたことですが、明治文学というのはあるフォーマットを持っている。
 そのフォーマットというのは、

「青年が生き方や女性関係に悩み無茶をして、でも最終的には青年期の終わりとともにまっとうな国の役に立つ人間になる」

 というものです。
 基本的に明治文学の主人公は男(青年)で、しかも大学へ行くようなエリートが多い。それが学生時代に反社会的になり、卒業するとちゃんと働くようになる。

 青年期は無茶が許されるが、それが終わるとまっとうになる。
 たとえば、鴎外の舞姫では留学先で恋人ができて妊娠までするのに、結局それを捨てて日本に戻って官僚になる(なんてひどい話だ)。

 このフォーマットで、青年期を学生時代、青年期の終わりを社会人とすれば、現代日本がそのまま出来上がる。

「学生時代は無茶が許されるけれど、社会人になったらまっとうになる」

 現代人って、明治人だったんですね。

 昔は悪かったけれど、今はまじめ、というのは日本人が好む形式です。元暴走族だけど一念発起して東大に入って今は教師、とか、そういう感じの物語。
 ちょっと考えてみれば本当は「昔から悪くなかった」ほうが全然いいわけです。昔悪かったということは被害者が存在する、ということだ。

 でも、「昔は悪かった」の方が物語としては面白い。
 それは僕たち日本人の物語の好みが、明治文学に影響を受けているせいだとも考えられなくはない。

 社会人だからどうのこうの、という言い方は、明治文学の名残で、明治文学はそもそもロシア文学の真似だから、僕たちは近代の初めくらいのロシアの文学を引きずって生きていることになる。
 それで、ロシア文学を僕は全然分からないのですが、大きな偏見を持っていて、ロシア文学は重苦しくて暗いように感じられて仕方がない。できれば、そんなものを引きずって生きていきたくはないなと思う。

 少なくとも、「社会人だから」というのは国家が人の生き方を決めようとしていた時代の名残であり、決して僕たちの味方となる言葉ではないと思う。