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コーヒーと常識

 50日くらいコーヒーを飲んでいない。やめたのかと聞かれたら、やめたわけではないが欲しくなくなった。小説を書いたりするときに、ときどき行くお気に入りのカフェが家の近所にあって、そこは値段が高いこともあってスタバとかマクドナルドみたいに高校生の集団とかが騒いでいたりしないし、各席がゆったりとした空間を持つように設計されているので広々していて快適だ。そのお店にいるときは、リラックスしているけれど頭の芯には確かな集中が存在しているという状態になる。だから自然と身体の状態にも敏感になるのだが、この店でコーヒーを飲むと肌の表面が微かにピリピリするのを感じるようになった。最初は蚊とかダニみたいな有害で刺すタイプの虫にやられたのかと思ったがそうではなくて、コーヒーを注文しないでバナナジュースみたいなものにしたり色々試してみると確かにコーヒーと因果関係があるようだった。調べてみるとコーヒーを飲むと肌がピリピリするという人はそれなりに存在するようでなんとかという症状名が付いていたが忘れてしまった。それからなんとなくコーヒーがあまり身体に合わないのかもしれないなと思って飲まなくなった。その店以外の場所でコーヒーを飲むときは別の仕事をしているときとか、誰かと出掛けているときとかで、そういうときには適度な緊張があるので身体の細やかな感覚には意識が行かない。だからそういうときは平気だが、それは身体からのシグナルを無視しているだけなのだろう。そうして1週間くらいコーヒーを飲まないでいると、全く欲しいと思わなくなってしまった。僕はカフェインが効いてくるときの高揚感が好きだが、あのようにはっきりした高揚は身体には負担だったのかもしれない。それから焙煎で生じた何かが焦げた臭いや、どこかアルカロイドを連想させる味も苦手なような気がしてきた。

 実は自分がいつからコーヒーを飲むようになったのかははっきりと分かっていて、2010年の夏からだ。その時のことを僕はブログに書いている( http://ryotayokoiwa.hatenablog.com/entries/2010/06/13 )。コーヒーが飲めるようになったのは嬉しかった。大袈裟に言うと社会に受け入れられたような気がした。それまでいつも出されるコーヒーを丁寧に断って、店に入ってはメニューの端にお情けのように載っているオレンジジュースとかアップルジュースとかココアとかを飲んでいたが、これからはメニューの広大な領域を占めている多種多様なコーヒーの中から選択することが可能だ。一緒にアルコールを飲むよりも、一緒にコーヒーを飲む方が豊かなバウンドを人との間に築けるような気もした。誰か好きな人とどこかへ出掛けて疲れてきた時に、快適な店に入ってコーヒーを飲みながら話をして休憩するのは天国みたいな時間だった。まるでこの休憩をするために出掛けたみたいに、良質のコーヒーがもたらす休息は快適だ。
 コーヒーを飲むようになった僕は、ミルからドリッパーから一式買い揃えて近所の有名店で豆を買ってきて自分がベストだと思うブレンドを考えたりした。コーヒー淹れたよ、実はシナモンロールも買ってあるよ、と恋人に起こしてもらう朝は豊かだったし、丁寧に淹れたコーヒーというものには現代では見つけにくくなった誠実な豊かさの象徴みたいな側面がある気もした。
 
 だが、段々とコーヒーをこんなに誰もが飲んでいるのは異常なのではないかと思うようにもなってきた。その違和感は缶コーヒーのCMが癒やしだとか辛いサラリーマンの味方だみたいな明るい絵作りの実質的にはネガティブなものであることや、石油に次ぐ第2位の取引額という信じがたいようなお金が動いていること、コーヒー豆の産地の人々は低賃金でこき使われていて自分たちではコーヒーを飲んだことはないという話などから膨らみ始めた。街中にこんなにたくさんコーヒーショップがあって、大人になると大半の人間が焦がした豆を砕いたものの出汁を飲んでいて、そこから得られるリラックスと同時に覚醒作用に依存しているというのは異常だ。
 嘘か本当かは知らないが、戦争中は兵士の行動時間を伸ばしたり疲労を隠して気分を高揚させるために覚醒剤が使用されたという話があって、銃で撃ちあったりナイフで刺したりということはなくなったが経済だかビジネスだかなんだか、企業でこき使われて疲弊した人間がカフェインで疲労を誤魔化しているのはそれに似ているような気がした。覚醒剤には圧倒的な効き目があってピュアにドラッグとして扱われるが、コーヒーにはマイルドな効果しかなくその不足分がコマーシャルや雑誌で提供される物語性で補われる。スターバックスをテイクアウトしてシリコンバレーのIT企業やウォール街をコーヒー片手に闊歩するビジネスマンのイメージに自分を重ねあわせたり、都会のオフィスで良く考えてみれば何の意味があるのか良くわからない仕事を胃に穴を開けながらやって得た賃金で高いサードウェーブコーヒーを飲んで都会から少し離れた場所でオーガニックな丁寧な顔の見えるコミュニティに所属して生活するというトレンドにコミットしているような幻想を抱いたりする。
 
 いつからか、コーヒーは人々をこき使って作った、人々をこき使う為の飲み物というイメージが僕の中で形成され始めた。たとえば数年前の韓国ドラマなどではコーヒーがフィーチャーされたものが結構あるし、メディアに出てくるコーヒーのイメージはどれもこれも良いものばかりだ。特にサードウェーブコーヒーという言葉は新しい生き方、新しい丁寧な生き方に繋がっているようなイメージと強く結びついている。
 たぶんこれらは、僕がコーヒーを飲み始めたときに感じた社会に受け入れられたという感覚と無関係ではないはずだ。

 コーヒーという飲み物に違和感を感じるようになってから何度かコーヒーに凝っている人を批判するようなことを書いた。その批判の内容は、コーヒーは手軽な逃避場所で、好きだからあれこれ凝っていると言いながらそこに逃げ込んでいるのだが自分ではそのことに気付かないふりをしている、というようなものだった。これは相当に穿った見方だし、あとからこういう批判をしたことを反省した文章も書いた。コーヒーにはコーヒーの世界の広がりがあって、それが本当に好きだという人だっているだろうし、世界一のバリスタみたいなものを本気で目指している人達だっているに違いない。だが、コーヒーという圧倒的マジョリティとなっている価値観にコミットすることは幾分盲目的な危険を孕んでいるように思う。コーヒーという飲み物はあまりにも当たり前になっていて、大人になったら会社で働くとか、土日だけが休みだとか、子供は学校で国語算数理科社会を勉強するとかみたいな常識に近接している。常識というのは歴史的にみれば現代だけに限定された奇習でしかないが、その時代に飲み込まれている人はそれが高々数十年前から始まった習慣に過ぎないと気付かないのでそれに限定された範囲でしか行動できないで死んでいくという意味合いで危険なものだ。
 自分がいかに無知で馬鹿な子供だったのかを告白することになるのであまり言いたくはないが、小学生のときは毎日給食に牛乳が出て「牛乳は身体にいいし、飲まないとカルシウムが不足して骨粗鬆症という病気になって骨折しやすくなる」と学校で聞かされていたので、牛乳は毎日飲むものだと思っていた。日曜日とか夏休みに牛乳を飲まないとなんとなく不安で落ち着かない気分になった。僕は牛乳というのは毎日飲むものだというローカルな常識に侵されていてインターネットもなかった時代の田舎では誰もそれが馬鹿げていると教えてくれなかった。それどころか牛乳を飲むのはいいことだという風潮があった。当時の田舎の教師は本当に無知だったので、牛乳を飲むことができないと言っている子供にも「砂糖を溶かしてやったから飲め」と強制的に牛乳を飲ませていた。
 
 コーヒーを飲むのをやめたと決めたわけではないし、コーヒー批判をしたいわけでもない。文化というひどく曖昧な言葉を使うとコーヒーがもたらした一定の素晴らしい文化は確実に存在するし、これだけ沢山の人々の嗜好品になっているというのは物凄いことだ。それにカフェという場所がないと困る。
 昔似たような話をある人にしたら、「陰謀論とか好きなんですか?」と訳の分からないことを言われた。当たり前だがコーヒーを使って誰かが世界をコントロールしているというようなことを言いたいわけではない。しかし、「パンとサーカス」ではなく「パンとコーヒーとサーカス」というような言い方は案外的を得ているのかもしれないとも思う。(ちなみに陰謀論という言葉自体がCIAの発明だという「陰謀論」もある。人は何かがおかしいと思っても「それって陰謀論じゃん」と言われたら自分が気違い扱いされているようで何も言わなくなる。)
 
 ただ変な感じがする。道路を歩いている時に街中がアスファルトとコンクリートで覆われていることに感じる違和感と感じように違和感を感じる。アスファルトで舗装された道路から僕達は大きな恩恵を受けている、物流や交通といった社会的なことから、単に歩きやすいという日常レベルのことまで。2日間ほどずっと山の中を歩いていてアスファルトの舗装道路に出たことがあるのだが、あまりに歩きやすくて感動した。だからアスファルトの道路を批判したいわけではないけれど、世界の色々なところがこんなに舗装道路で覆われているというのは普通のことではない。それと同じように、世界中の色々なところでこんなにたくさんコーヒーが飲まれていて、しかもカフェインの薬効がカウントされているというのは普通のことではない。