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台湾旅行記2:歴史と輪郭と現在

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「二十歳まで日本人でした」と彼女は言った。70年という長い時間が経過して、20歳の女の子は90歳を過ぎたおばあさんになり、そして僕の隣に座って食堂の説明をしてくれている。70年という時間の重みを忘れさせる程、日本語は流暢だった。「向こうも一緒に見ますか」と尋ねて頂いて、店内を一回りした。落ち着いていて小柄で、老人だけが持つことのできる独特の強靭さを感じる。彼女は始終笑顔できれいだった。

 僕はそわそわとして落ち着かない気分になった。二十歳まで日本人だったという台湾人のおばあさんを目の前にして、どのように振る舞い何の話をすれば良いのか良く分からなかった。聞きたいことはたくさんあったけれど、それらを聞いていいのかどうかも良く分からない。
 歴史を知ることは難しい。子供の頃は素直に歴史の本を読めば良いのだろうと思っていたけれど、大人になると全ての本にはバイアスが掛かっていて何も分からないと思う。特に歴史に関しては「Aであった」という主張と「Aではなかった」という主張が学術性の外側で一つの思想的な争いとして繰り広げられていて、利益争いのような側面も垣間見てしまう。中途半端な勉強では本当のことを知ることは難しい。かといって、一次資料を探したりして専門的に研究しようとは思っていない。
 だから、もう面倒になって、年表のようなざっくりとした構図だけを知っていれば、もう後はいいや、と思いたくなる。だいたい、過去には僕は居なかったじゃないか、過去は過去であり、今は今だ、と思いたくなる。
 けれど、このそわそわする感じは、僕には関係のなかったはずの70年以上前の日本がやはり僕にも関係のあることだと思い知らせてくれた。過去は今へと繋がっていて、それは当然のことなのだが、面倒なので目を閉じていたのだ。
 
 このおばあさんに会ったのは、今回の旅で最後に訪ねた街、高雄でのことだ。
 台北、台南、高雄の3都市を回って感じたのは、南へ行くほど「日本との過去」を強く感じるということだった。逆に、南へ行くほど日本人を見かけなくなる。台北ではたくさんの日本人観光客を見かけたが、台南では1人だけ、高雄では都市部中心地へ行っていないこともあって日本人らしき人を1人も見なかった。南へ行けば行くほど、現在の日本人は少なくなり、日本の過去が強く浮かんでくる。

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 日本人である、ということに関して、台南では少し不思議なことがあった。
 もしかすると気のせいかも知れないけれど、一度だけ僕達は「ヤーパン」と呼ばれたような気がする。
 僕は中国語がほとんど分からない。「こんにちは」とか「ありがとう」とか「これを下さい」とか、そういう旅行会話みたいなことも満足にできない。さらに台湾語となると全然分からない。(もっと付け加えると、昔中国語を勉強しようとしていた頃、シンガポール人の友達に「良太は中国語の発音終わってるから中国語は諦めた方がいい、何言ってるか全然分からない」と終止符を打たれたことがある。)
 だから本当に僕の聞き間違いである可能性も否定できないのだけれど、状況としては年配のおばさんが店の奥に向かって「なんか日本人が来たんだけど」という感じのことを言ったような感じのする場面で、彼女は「ヤーパン」と言った気がする。台湾語の会話の中で「ヤーパン」という聞き慣れた単語だけがフレッシュに耳に飛び込んできた。ヤーパンというのはJapanのオランダ語とかドイツ語とかの読みだ。日本を指す言葉には流石に反応してしまう。これが中国語で「リーベン」と言われていたら、ふーん、と思って終わりだっただろう。「ヤーパン」だったので違和感があった。 
 そのお店は、たぶん完全に地元の人が営業している地元の人の為のお店で、満席に近い店内(とは言っても半分外だけど)に入ると僕達は少し珍しそうに少しジロジロと見られた。「ヤーパン」の席に注文を取りに来たおじさんも数字以外の英語を理解しているのかどうか怪しい。だから、無論偏見ではあるが、このお店の人がオランダとかドイツと親交があるとは思えなかった。生まれてこの方ずーっとここに住んでいて、ずーっとこのお店をやっているという感じだった。
 なのにどうして「ヤーパン」なのだろう。やっぱりただの聞き間違いか。

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 翌日、僕達は「安平老街」というエリアまでバスで出掛けた。
 僕達が持っていた台湾のガイドブックには「バスはややこしいし、タクシーは安いからタクシーに乗りなさい」と書いてあったけれど、台南ではバスを多用して、お陰で街のことが少し分かった気がする。ちなみに台南には街の中を移動できる地下鉄のような電車はないので、公共交通機関はバスだけだ。日本と違って、バス停にいても、タクシーを拾う時のように手を上げて合図をしないと止まってくれない。実はこの日、安平老街の後に行った場所で、僕達はバス停にいたのにバスを逃した。兎に角どんどん歩いてみようかと、夕方で幾分暑さが和らいだのをいい事にかなり辺鄙なところまで行ったときだ。空き地と家しかなくて、ときどき遭遇するのはバイクと野良犬ばかり、暗くなって流石に心細くなって、もう歩くにもクタクタ、という時に見つけたバス停で「ルート変更のお知らせ」みたいな表示を読んでいたらバスが通り過ぎてしまった。次のバスは随分待たなくては来ないし、バス停の周囲には何もないし、こんなところでずっとバスを待ってなんていられないと僕達は渋々また歩く羽目になった。

 安平老街にバスが近づいて、なんとなくこの辺りのバス停で下りようかと降車ボタンを押して前の方へ移動すると、近くに座っていた中年夫婦のおばさんが「あれっ、ここで下りるの?どこ行くの?」と話掛けてきた。特にどこってわけでもないけれど観光地みたいだから来ました、と言うと「じゃあ、ここじゃなくてもっと先で、私達と一緒のところでおりましょう」と言って、運転手に何やら説明してくれた。
 おばさんとその夫と運転手はずっと楽しそうに話していて、ときどきおばさんが英語でこちらにも話を振ってくれて、なんだか分からないけれどワハハハと愛想笑いを浮かべながらさらに5,6分のバスライド。
「ここで、降りましょう」
 おばさん達が目的としていたバス停は、まさに観光地のど真ん中で、バスに乗っていたほとんどの人達は僕達と一緒にそこで降りた。日本の7月とか8月みたいな炎天下にものすごく沢山の人達が楽しそうに歩いている。おばさん達とはしばらく一緒に歩いて、お礼を言って別れた。「安平古堡には行ったほうがいいよ」ということだたので、安平古堡へ行ってみる。屋台のたくさん出ている通りではどうしてか韓国の細長いソフトクリームのお店を結構見かけた。あと、誰がこんなところで買うのか分からないけれど掃除機を売っている屋台とか。

 安平古堡は観光名所になっている史跡なわけだけど、予備知識を持たずに行った僕達は説明書きを読んでびっくりした。
 1624年にオランダがここにレンガ造りの城を建てて台湾を統治していて、1661年にはオランダは鄭成功に追い出される。鄭成功の時代が20年くらい続き、その間はこの建物も使用されていて、その後は廃墟と化した。さらに日本統治時代には、オランダ時代のものを破壊して日本式の宿舎に改築。
 つまり、その後台湾時代になってから補修などが行われたといっても、僕達が見ているものは基本的には「日本」が作った建物だった。

 台湾の東側などへ行けば、もっと話は違うのかもしれない。
 ただ、僕達が今回訪ねた台湾南部の観光地には尽く日本の影があった。
 史跡を訪ねなくても、日本の影は街の至る所で見える。ホテルでテレビを点けていると日本語が聞こえてくることもあるし、コンビニに入れば日本と同じものが日本語のパッケージに入ったまま売っている。くまモンとかフナッシーは至る所で見かける。ひらがなの「の」は僕達が英語のbyとかandみたいな前置詞を日常的に使うのと同じ感覚で普通に使われている。バスの路線図を眺めていると若いカップルが「大丈夫?」と日本語で話掛けて来てどのバスに乗ればいいのか教えてくれる。
 でも、それとこれとは別の話だ。
 かつて日本統治時代に作られた沢山のものが残っていて、それが観光地になっている。電車に乗っていて駅舎が懐かしいと思えばそれも日本統治時代に作られたものだった。僕の知らない古い日本がここにはあって、それらが突きつけてくる関係ないはずの懐かしさを前にしてしまうと、生まれる前の無関係なことだとはもう言えなかった。
 それから、日本統治時代のもっとずっと前のオランダ統治時代。昨日のヤーパンに関係あるのだろうか。まさか、それにしては時代が古すぎる。

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 少し話は逸れるのだが、京都から東京に出て来た時、街が「古い」と感じた。むろん表参道などに面した最新の商業地域は別として、ちょっと路地裏に入ったり、電車から外を眺めていたりすると「古い」と感じる。京都にはきっともっと古い建物が身近にあるのだけど、それらはもう所謂「古すぎて逆に新しい」ものだった。1200年前の平安時代に関してはもう新しいとか古いとかではなくて「何か別の世界」だし、そこまで行かなくても歴史ある何かは「歴史的な」というジャンルに括ってしまうことができる。
 東京には数十年前の建物がたくさんある。小津映画に出てくるオフィスビルみたいなのがたくさん残っている。それらは今と地続きな分、余計に古く見えて、さらに良く分からないノスタルジーを喚起する。
 
 台南はそういう懐かしい東京に似ていた。林百貨店というデパートに入ったときは自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。なぜならそこには日本としての歴史みたいなものが織り込まれていたからだ。
 林百貨店は1932年に山口県出身の実業家、林方一が作った。そして戦中には米軍の空爆も受けていて、敗戦とともに廃業。廃墟となっていたものを2010年から台南市が2億7000万円かけて修復。2014年に晴れて店舗として再開。内装は、「あの時代の洋館」そのままだ。僕はこういう建物を廃墟としてしか見たことがなかった。それが今生きて目の前にあり人々で賑わっていた。建物の亡霊に飲み込まれて夢を見ているのではないかと怖くなるくらいに。

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 高雄では旗後砲台という砲台を訪れたのだけど、ここも行ってみると「日本軍によって爆破された」とか書いてあって、かなり複雑な気持ちになる。いろんなところで過去の日本というものが観光名所という形で僕達に話しかけてくる。
 そして段々と、「日本の形」が分からなくなってくる。そういえば、北海道へ行った時も沖縄へ行った時もなんとなく「こんなに景色や背景の違うところまでシンプルに”日本”でいいのだろうか」と思った。もちろん国内として訪ねることができるのは便利でラッキーだけど、なんというかもっと別の名前の元に尊重されるべき生活がそこにはあるような気もした。韓国に行った時も、あまりに日本に似ているので、ここは本当に単なる”海外”としておくべきところなのだろうかと思った。
 国境という勝手に引かれたラインをファジーに捉え直すと、滑らかに繋がり、緩やかに変化していく文化圏としてのローカルが浮かんでくる。最近では「3万年前の台湾から与那国への航海を再現する」というプロジェクトがあるけれど、そういうものが象徴する「国家間の繋がりという国際」ではなく、ただの地域間の、あるいは移動する人々の間の繋がりというものが可視化されると世界の風通しがぐんと良くなる気がする。

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