起こり、消えた全ての事象の漣

 同じ時期にすぐ近くの研究室で博士課程にいた友人が、学位を取った後4年ほどヨーロッパやアメリカへ行って、この春日本に戻ってきた。丸の内で久しぶりに会って話をしていると、彼女は僕が全く思いもしなかったことを教えてくれた。話の発端は、「正しい修復」という言葉だった。彼女は文化財修復の研究者で、色々な国に色々な流儀というか正しい修復の基準があって、特に日本は変わっている、というようなことを言った。「ちょっと待って、正しいも何も、修復って元に戻すことなわけだから、それが作られた新品の状態に近づけるのが”正しい”ということで、いくつも基準があるというのは理解できない」と、僕は話を遮った。
「ああ、そう思うんですね。それは違うんですよ」
「えっ?!」
「新品の状態にしちゃいけないんです」
「えっ?!」
「たとえば500年経ったものなら、500年経った状態にしておかなくてはいけないんです。私が今、このテーブルの上で何かの修復作業をしていて、ケチャップを溢して汚してしまったとするじゃないですか、その汚れはキレイに取ります。でもそうじゃないのは、どれを取り除いて、どれを残すかという判断が入ってきて、結局は人間の主観が入ります」
「ああ、そうか、その物に刻まれた歴史は取り除いてはいけないということだよね。ケチャップは取り除いていいけれど、それがナポレオンの血だったら取り除いてはいけないというか、ナポレオンが零したケチャップだったらそれも取っちゃ駄目かもだし」
 もちろん、500年前に作られた何かに、現代の修復家が間違えてケチャップをかけてしまったというのも、その物に刻まれた歴史の1ページではある。もしもその修復家が後に「歴史的な」大人物になればそれこそ。だが大抵の場合、それは「歴史」にカウントしないということだ。歴史を編むときの主観が、ハードエビデンスである物品の修復にも入って来るなんて思いもしなかった。過去というものは、僕達が思っているよりもずっとずっと恣意的なものなのだろう。
 
 網野善彦の本で「百姓というのは”普通の人”みたいな意味だったのに、ある論文で間違って”農民”としまったのが広まって、いつの間にか昔の日本人は農民ばかりだったという誤解が生じた」というのを昔読んだとき、とてもびっくりした。歴史のことは、というか過去のことは僕には分からない。専門家ではないから分からない、というわけでもなく、過去のことは本当は誰もに分からない。だから「網野史観を支持するのか」と言われたら、僕には判断する根拠も何もなく、特に支持するというわけではないが、網野さんの本を読んだときのスカッとした感じは今も結構はっきり覚えている。当たり前のことだけど、今も昔も色々な人がいて、世界も社会も複雑だ。
 あの時のスカッとした感覚は、白黒の世界からカラーの世界へ飛び出した開放感に似ている。
 小さな頃、テレビやなんかで見る「昔」は全部白黒の映像だったので、「昔は色がなくて暗い世界だった」と思っていた。もちろんそんな訳はなくて、大昔から空は青く、晴れた日は明るく、森は緑だったし花は鮮やかだった。着物には色と模様が染められ、彼女はゴーストではなくキュートな生身の女の子だった。
 
 複雑なものを複雑なまま扱うことは至難の業で、僕達は歴史のことも勝手にシンプルに整形して理解しようとするし、その土台にはあの忌々しい義務教育とかいうので叩きこまれたフォーマットが根を下ろしている。
 歴史という言葉を「人類のこれまで」と捉えるとすると、それは端的にこれまでの全てなので分かりようもなく、さらには分かったとしても情報が多すぎるので一人の人間には認識することができない。500年前あの場所で何とかという名前の男が魚を食べたとか、2000年前この場所で誰々が枝の先を削っていたとか、そういう「重大ではない」全ての営みについて一々構っていられない。
 だが、それらがこの世界でかつて起こったのは事実だ。
 重大ではない、それらの全ては現実に起こり、そして消えた。
 その些細なすべての物事の影響は、カオスの縁を乗り越えて今日に作用を及ぼしている。
  
 「歴史あるなんとか」という言葉使いがあるが、歴史のないものはこの世界に存在しない。今日、さっき、これまでの人類の営みとは全く関係を持たずに社会に到来したものなど存在しない。全ての物は「歴史的で伝統的」だ。わざわざ「歴史ある」とか「歴史的な」とか、あるいは「伝統的な」とかいう形容が用いられる時、そこには「私があなた方に認めて欲しい」という更なる形容が隠されている。
 
 伝統や歴史を重んじるのであれば、ゴミ箱に大量に放り込まれているペットボトルはサイエンスとエンジニアリングの伝統の奇跡的な結晶だ。無色透明で軽くて強靭で液体が漏れず極めて安価で大量生産が可能な超高性能な容器は、古代から脈々と続いてきた数学や化学や機械工学の粋であり数千年の歴史が生み出したものだ。
 
 伝統工芸の漆塗りとか焼き物とか祭りとか踊りとか着物とか、それが伝統だから大事だという主張は、だから変だ。「伝統だから大事」なのではなく、「私が大事にしたい伝統だから大事」という話で、つまり「大事にしたいから大事にしたい」ということでしかない。それは個人やある特定のグループの人達の望みだ。
 絶対に誤解されると思うので断っておくと、僕は「本当は特定の人達の望みや欲求にすぎないものを、伝統という言葉で正当化しているのが嫌だ」ということを言いたいわけではない。
 僕が嫌なのは「”私達はこうしたい”という主張が、”伝統的だから”という本質的には何の意味もないエクスキューズに包まないと主張しにくい」という風潮そのものだ。
 
 「私はこうしたい」「私達はこうしたい」という欲求や希望は、本当はとても重要なものだ。「今、ここにいる私が、こうしたい」は歴史とか伝統とかよりずっと大事なものだ。だけど、それをそのままストレートに主張することは何故か憚られる、「伝統を守る」「社会に貢献する」とかなんとか耳障りが良くて誰もがなんとなく納得する言葉を付け加えなくてはならない。プレゼンテーションの最後はいつも「社会を良くする」だ。
 漠然と伝統という言葉を使うのであれば「おじいさんも、お父さんもずっとやって来た”伝統的な”祭りだから僕もやりたい」という感じの主張は有り得る。けれど、フィーチャーされるべきは「伝統を守るため」ではなく、「僕もやりたい」であった方が「僕は嬉しい」。
 そうでないと息が詰まりそうだ。
 もっとも、僕達が生きているのは裸で出歩いたら逮捕されるという、既に冗談みたいなシステムの中なわけだけど。

 

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

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