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連載小説「グッド・バイ(完結編)」23

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・迷走(四)

 キヌ子のアパートまで一目散と行きたいところだが、田島が人通りのある往来を走れるわけない。あははは、あの人は、あんなに急いで、何か大変なことでもあったのだね可哀想に。と、笑われているような気分になってしまう。電車にもバスにも、あとちょっと急げば間に合うのに、絶対に駆けない。いえ、もともと次のに乗る予定ですから。今も平静のふりをして歩いているのだが、どうしても足早。走らぬように、かといってゆっくり歩かぬようにの中途半端な変な動き。よっぽど、かえって嘲笑の的。眼鏡もずり落ちている。
 もう昼下りの三時半なので、キヌ子はきっと部屋にいるであろう。あの強欲のこんちきしょう、いい気になりやがって。田島は激怒していた。こんなに心底怒ったことはこれまでにない。なんといっても金、金、金の男。色男の名誉も恥も外聞もかなぐり捨ててコソコソと、真っ黒な苦労の果てにがっぽり貯めこんだお金が盗まれてただでいられようか。誰が見ても、キヌ子が悪い。もうどんなひどい報復をしたって、誰も文句は言わぬ。
 アパートのところまで来ると、もう人も歩いていない。田島は急にわざと喧しく足音を立てて階段を駆け上る。どうやら憤怒の演出表現。この人は、どんなに怒っていても、結局のところ自分の心だけに集中することができない。人のことが気になって演出を、どんなときにもいつもしてしまうのだ。階段を上り、今度は廊下もやはり念入りにドタドタと音を立ててキヌ子の部屋に迫る。ヒヒヒ、これでキヌ子も何事かと慌てふためくに違いない。
 が、次がいけない。
 田島、ドアの前まで来て止まってしまった。えー、急にドアを開けて、おい泥棒猫なんて叫んだろうか、それともドアを開けないで叩きながら、ヤイこの盗人め、などと叫ぶのがよいか、どっちかな。
 狡賢い強欲のウソつきの見栄っ張りのチンケな人間はあったが、神経質で優男の田島、これまでに乱暴をしたことがなかった。
 結局、ドアをノックしながらちょっと開けて、「あの、君、ちょっとお話が。」
 中を覗き込もうとした次の瞬間、ドアが内側から体当たりされて、ものすごい力と勢いで閉ざされる。
 「ぎゃー」
 田島は右手がドアに挟まった。激痛。ああ、もう、これは折れたに違いない。気が失われそう。
 つい、キヌ子の怪力を忘れていた。怒りは身を滅ぼす。これ真なりや。